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必要的虚構としての人権主義

 内藤朝雄著「いじめと現代社会」の書評2 

 社会学者・内藤朝雄は、価値観が異なる人間が共存できる社会に絶対的価値を置いている。そして、価値観が異なる人間がどうしが共存する社会をつくるためには、一つの虚構=物語が必要であるという。それが、個人の自由と平等に基づく人権主義というわけである。人権主義は虚構であるが、他の虚構と異なり、人々が共存していくためには必要な物語なのである。ちょうどこれは、柄谷行人が「倫理21」などで論じている超越論的仮象としての自己責任(自由意思)と同義、あるいは機能的に等価である。

 見田社会学の社会の四類型論からすると、内藤氏が目指している共存社会は、連合体に相当する。連合体は、個人の自由な意思で選択的に関わり、互いに人格に立ち入らない関係だからである。連合体のコードは、(即自/対自)、(人格的/脱人格的)というコードからなる。ちょうど、共同体のアンチテーゼが連合体に相当するわけであり、理論的に考えても、内藤氏が共同体を嫌うのも当然だと言える。
 
 内藤氏がイメージしている人権主義の本質は、おそらく原子論的個人主義の世界であろう。それは、個人が互いの心理的あるいは内面的領域を侵さずにバラバラに存在するという物語なのである。平たく言うと、人に価値観を押し付けてはいけないということに尽きる。たとえ、善きことと思っても、相手の意思に反して、善きことを押し付けてはならないのである。また、他者の不透明性は不透明なままで受容される社会でもある。実は、これは、個人主義や近代的自我として、ポストモダンの関係主義者から批判されてきた立場なのである。さらに、他者論者からも個という観念は取り替え可能な近代社会のユニットだとして批判されてきた。
 確かに、人権主義や個人主義には、このような批判はあるが、価値観の異なる他者と共存する社会を創発するためには、必要な方便だと言える。他の物語ではこの機能を遂行することはできない。

 一方、まったり革命を捨てて以降、社会学者・宮台真司は過剰流動性や不透明性に危機意識をもっているようであり、内藤氏の立場と微妙に異なっている。この違いが同書の対談を面白くしていた。(幸福/不幸)というコードに準拠して考えると、必ずしも、共同体で生きる人間が不幸だと限らないからである。むしろ、共存社会である連合体の中で生きると、他者と人格的に関わることができず、友達もできず、孤独感を感じる人もいるかもしれない。宮台氏は、過剰な流動性や過剰な不透明性が人間の生を破壊すると感じ取っているのかもしれない。人間の生にとって、共同体も連合体も集列体も交響体も全て必要である。むしろ、私は、四つの社会存立体のマイナス面を押さえ、プラス面を発揮することを可能にする統合システムを創発することを提唱したい。ざっと思い付くままに考えてみると・・・。

 共同体のマイナス面・・・価値観の強制、行動の束縛
 共同体のプラス面・・・仲間意識による安心感、集合的沸騰
 連合体のマイナス面・・・孤独感、疎外感
 連合体のプラス面・・・不当な強制の排除
 集列体のマイナス面・・・アノミー状態による焦燥感
 集列体のプラス面・・・私的利益の追求の自由
 交響体のマイナス面・・・価値観の一面化
 交響体のプラス面・・・自己実現

 それぞれの社会存立体が、人間の様々な生の形式と対応しているのであり、人権主義による共存社会=連合体だけを絶対化することが全ての人間にとって幸福かどうかはわからない。しかし、人権主義という虚構に基づく共存社会は、人間にとっての最悪の不幸(圧政による虐殺やいじめや差別)を取り除くという意味においては、絶対必要である。
 
by merca | 2007-02-27 23:08
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