無為の共同体と空の思想

 ナンシーの「無為の共同体」によせて

 自己利益や承認欲求のためではなく、存在そのものとして、人は他者と共に存在することを必要とする。人は他者がなければ、自己の死すら全うできない。基本的に、生死には、他者が絡む。生は、親という他者を必要とする。死は、他者から見取られたことで、はじめて死としてみんなに認知され、伝えられる。生死という人にとっての根本的真実=宿命は、他者と共にしかあり得ない。人は人と生死を分有する。人は、「共存在」である。

 しかし、かような共存在という在り方あるいは「無為の共同体」は、俗にいう共同体とは異なる。ここがナンシーの哲学の要諦である。人は、「複数にして単数の存在」である。これは、唯一の存在が複数共に存在しているということを指す。共にあるが、全体性としての同一性の部分として統合されているわけではなく、またバラバラに切り離されて存在しているわけでもない。前者は俗にいう共同体であり、後者は俗にいう個人主義である。すなわち、「無為の共同体」は、同一性と差異性のどちらにも還元できない世界観であり、共にあるということこそが根源であるという哲学である。言わば、(共同体/個)という区別を無効にする哲学である。
 
 龍樹は、中論において、「存在は、自から生じず、他から生じず、またその両方からも生じず、またそれら全てによらずしては生じない」という四句分別という論法を使っている。自己原因、他者原因、相互原因の全てを否定するとともに、それら全てが必要だとする思考である。ナンシーの「複数にして単数の存在」という矛盾的表現と通じる部分がある。というよりか、龍樹の四句分別は、ナンシーの言い表わそうとしている世界をより正確に表現していると思うのである。ナンシーにおいても、自他のそれぞれは孤立的に実体化されないし、自他の関係性も実体化されない。同じく、龍樹は空の思想によって、いかなる存在の実体化も否定した。その論理について言えば、龍樹のほうが洗練されている。

 ともあれ、唯一者が複数共に存在するというナンシーの哲学は、人権主義よりも根源的な思想であり、また物語論も超越しているのである。また、レヴィナスの他者論(他者の実体化)の欠点も克服している。
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by merca | 2007-03-09 01:59 | 理論
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