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価値観強制としての教育

 
 若者達の間に、人に価値観を押し付けてはいけないという規範が流布している。この規範を若者が絶対化するために、教育そのものが成立たないと悲鳴をあげる大人たちがいる。なぜならば、教育の目的は、社会に適応できる人間をつくるために、子供に価値を伝達することであるからだ。教育の本質は、価値観の押し付けである。プロ教師の会という教育思想集団がこの現実にもっとも自覚的である。彼等の思想は、教育を子供の社会化(社会的価値の内面化)として捉える古典的社会学理論(規範主義パラダイム)に準拠している。

 教育社会学の古典的な思考枠組みからは、殺人禁止道徳=価値観(命は尊い)についても、最初から子供が所有しているわけではなく、後天的に教育によって植え付けられると考えられる。従って、この立場からは、殺人禁止道徳を所有していない人間は教育の失敗として捉えられる。

 少年による猟奇的殺人が起きた時には、まずは教育の失敗として考えられ、マスコミの報道を通して、事件を起した当人だけではなく、世間の全ての子供に十分に教育が行き渡ってないと憶断され、教育パニックなるものが起り、教育者によって命の大切さを押しつける道徳教育が施されるわけである。殺人を肯定する子供が出るということは、教育者からしたら、価値伝達(人間として生きるための価値の伝達)の失敗であり、教育の敗北を意味する。

 ところが、先にいかなる価値観も押し付けてはならぬという価値規範を内面化してしまっている若者達は、価値観の押し付けである教育そのものを拒否するため、殺人禁止の価値観も押し付けることができないのである。ここでジレンマが起きてくる。個人主義の絶対的原理である価値観強制禁止道徳と、人権主義の根本原理である殺人禁止道徳の対立である。どちらを優先させるべきかである。言い換えれば、これは相対主義と絶対主義のどちらを選択するかと同じである。

 この問題を解決するには、価値観の種類を分類する必要がある。価値観は、善/悪、損/得、好/嫌、恥/名誉の四つに分類される。まずは、好/嫌は人の好みの問題であり、押し付けるべきものではない。損/得や恥/名誉も、同じである。周りから見て他人が損をしていたり、恥をかいているのを見て、助言ぐらいはできるが、考え方や行為を強制することはできない。自己選択の世界である。
 さて、善/悪はどうだろうか? 善/悪とは、他者との関係性における規範である。関係性とは、自分の行為が他者に影響を与えるという事態をさす。自己は、他者の幸不幸に影響を与える責任を負うことになる。結論からすると、善悪の価値観だけは他の価値とは異なり、他人に押し付けることが許される価値観である。要するに、他人との関係で生じてくるものであるからである。

 実は、価値観強制禁止道徳それ自体が、善悪の次元の価値観であり、これを他人に主張することで、すでに自己の価値観を押し付けているのである。そのことに若者は気づいていない。他人から価値観を押し付けてきた時に、いかなる価値観も押し付けてはいけないという理由で拒否したら、それは押し付けてきた他人に対する価値観の押し付けになるのである。自己言及のパラドックスと構造は同じである。言い換えれば、価値観強制禁止道徳は、価値観を押し付けてくる他者からの価値観を受け入れても拒否しても、矛盾が生じ、成立しないのである。

 現実社会に価値観強制禁止道徳を生かすためには、価値観の分類という新しい区別から観察する必要がある。要するに、個人だけにかかわる損/得、好/嫌、恥/名誉の価値観に関しては押し付けてはいけないという原理を適用し、他者との責任関係に関わる善悪の価値観に関してだけは適用外とするわけである。そうすることで、価値観強制禁止道徳はうまく機能する。だから、人権思想に基づく殺人禁止道徳は、善悪の次元の価値観なので、価値観強制禁止道徳の適用外であり、押し付けてもいいわけである。

 善悪の価値観は、他の次元の価値観と異なり、形式的には、はなから他者に押し付けてもいいという定義が含まれているのである。社会学的にいうと、個人の趣味や利害だけに関わる価値観だったら、最初から道徳とは言わないのである。なのに、他者との関係性のレベルの価値観と個人のレベルの価値観を混同して、やたら価値観強制禁止道徳を主張しまくる自己防衛的自我をもつ若者たちが多いのである。

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by merca | 2007-03-11 11:11 | 理論
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