二つのリアリティ(真理観)

 真理観には、大きく分けて二つある。物理的リアリティと社会的リアリティである。
 物理的リアリティとは、対象と認識の一致に基づく真理観である。例えば、AとBという物体があり、「AはBよりも大きい」という認識は、認識主体が対象との関わりだけで判断できる。対象を見るだけで自己判断できる。他人に聞く必要はない。もう一つ例をだすと、目の前に有る米粒の数は、数えればわかる。これも対象との関わりだけで判断できる。このように、認識主体が対象との関わりだけで正しさを得ることができる真理を物理的リアリティと言う。
 一方、社会的リアリティとは、他者の認識との合致や合意に基づく真理観である。例えば、政治的意見や道徳の問題は、直接正しさを判定することができないので、議論等を通して人々に受けいれられたりして、正しさを獲得していく。例えば、平和主義が正しいと思う人が多くいれば、それは正しくなる。対象との関係性から正しさを得ることはできず、人々との合意形成によって真理だと思われる。一つの認識は多くの人々に共有されることで、正しさを獲得するという真理観である。ある道徳が正しいとされるのは、その社会で多くの人がその道徳を共有しているからである。

 一応、物理的リアリティは自然科学に、社会的リアリティは社会科学に対応していると考えられる。これらは相互に独立的であり、一方に還元されることはない。例えば、「AがBよりも大きい」という物理的リアリティに基づく自然科学的真理は、社会や文化が異なっても同じである。アメリカ人が見ても、インド人が見ても、AがBよりも大きいと判断するであろう。これは、社会や文化を越えた正しさ=普遍的真理だと考えられる。決して、社会や文化によって真理が異なるというイデオロギー論や文化相対主義には還元されない。自然科学が近代社会のイデオロギーだというのは、確かに社会的リアリティの次元では正しいが、対象と認識が一致しているという事実内容の次元とは直接関係ない。この点、よく混同されている。自然科学的真理の正しさは、合意や多数決で決まらない。あくまでも対象との関係性で決まる。自然科学を近代社会のイデオロギーだから真理ではないと言ったところで、正しさを否定したことにならない。
 また、社会的リアリティは、物理的リアリティと関係ない。政治的意見や道徳の正しさは、人倫関係を超越した自然法則から導きだせるものではない。人倫関係の内部から導きだせるものである。早期から社会学はそのことに気づき、道徳を分析対象にし、実証的に研究してきた。

 科学というものを物理的リアリティに準拠して考える論者が、疑似科学として社会学を批判するのである。しかし、社会的リアリティに準拠した真理観が存在することがわかっていないのである。
[PR]
by merca | 2007-03-21 00:55 | 理論 | Comments(0)
<< 手段にすぎない自然科学 疑似科学批判論者への疑問 >>