手段にすぎない自然科学

 (自然)科学は、手段にしかすぎず、目的を提供してくれるものではない。そのような脈略から、科学よりも、科学をどんな目的で使用するのか、そちらのほうが大切であると、科学者自身が警告を発していた時期があった。
 
端的な例で言うと、冷戦時代には、核開発という科学技術を戦争目的で使用することの危険性がとりざたされてきた。科学は、利用者の目的によって、人々のためになったり、また人々を苦しめたりする。初期の科学批判は、このようにしてなされてきた。つまり、科学の発達が人間を必ずしも幸福にするものではなく、科学を利用する適切な目的や意味を追求するほうが大切だという反省が出てきた。

 手段ではなく、目的を追求する学問を哲学という。存在=「世界はいかにしてあるのか」は科学に任すとしても、価値=「いかに生きるべきか」という問題は、手段の学としての科学では追求できないのである。

普通、このようにして、科学は人間の幸福(利益)のための手段であるとして、相対化されてきた。目的としての価値の問題は間違であるとかないとかという次元ではなく、人々が適切であり、何が善であるかと考えるという社会的リアリティ=合意や共有の問題であり、自然法則を扱う自然科学が入り込む余地はない。哲学のほかにも、しいて言えば、社会科学のみがこれを扱うのである。特に、社会学が有効なのである。
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by merca | 2007-03-25 19:23 | 理論 | Comments(0)
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