唯脳論について

 ある一つの思想を別の思想による区別で観察する試がある。
http://musai.blog.ocn.ne.jp/jijimusai/2007/03/post_1268.html
 哲学を科学するというのも、その一つである。科学からすると、全ての哲学現象は、脳内の神経反応によって構成された像や言葉にしかすぎす、複数の人間がそのような像や言葉を共有することで、哲学する人々のリアリティが成立っているというのである。物質の実在感は、脳内の神経反応によって構成され、それが複数の人間に共有され、共通の言葉で指し示される時に、リアリティを得ることになる。リアリティの根拠は、全て脳内現象である。
 
 上記の思考パラダイムは、全ての思想や社会現象を脳内現象として解釈する「唯脳論」とでも呼べる立場になる。この科学的「唯脳論」は一見すると、哲学で言う唯幻論的独我論と似ている。つまり、物質も含めて世界はある中心点によって構成された錯覚・妄想であるという点が同じである。しかし、「唯脳論」は脳が複数実在することを前提としている点で、独我論と全く異なる。確かに、脳内現象は一個の脳内で起るが、それが科学的であるためには、複数の人間の脳に共通の現象であると証明する必要がある。脳が複数ある、つまり人間が複数いることではじめて成立つ議論であり、独我論とは異なる。そして、複数の人間が物質の実在性や言葉を共有することで、リアリティが成立つというのなら、なおさらである。ここまで来たら、表面的・結果的には、人々が同じ言葉や価値観を共有することで、社会秩序や人間世界が成立つという古典的な社会学と全く差異がなくなる。
 つまるところ、「唯脳論」が自己を科学として主張するためには、(共有する/共有しない)というコードに準拠し、共有するをマークする他ないということである。

 ルーマンの社会システム論では、意識システム(心)と脳神経システムは別個の存在でありつつも、構造的カップリング(相互依存)をするシステムと見なしている。どちらか一方に優位性を認めていない。また、社会システムも、意識システムや脳神経システムと同等の実在性が与えられている。人間の思考=意識システムは、脳神経システムを必要とするだけでなく、基本的には社会システム(言語を配給するなど)も必要としている。行為を創発するのは、意識システムであって、脳神経システムとは直接関係ない。ここは重要な点である。脳神経システムは、意味システムではないからである。脳神経システムは、基本的に刺激-反応という因果図式の世界であるが、意味システムとしての意識システムは、言葉や論理法則や合理性によって構成されている。(刺激/反応)というコードによって脳神経システムは作動しているが、意識システムは(目的/手段)というコードによって作動している。
 意識システムも脳神経システムに影響を与えることができる。事例としては、精神病の投薬が典型的である。軽度の統合失調症である患者が妄想・幻聴を見た時に、医者から精神薬をもらわないといけないと思い、精神薬を投与して妄想が治まることがある。このように自己の脳神経システムの異常をコントロールするために、意識システムは、精神病を心の問題ではなく、脳神経システムの問題として解釈し、統制するのである。意識システムのおかげでかえって脳神経システムは助かるのである。このことは、意識システムが脳神経システムに完全に依存しているわけではないことを証明している。脳神経システムは、意識システムが作動するための一つの条件にしかすぎないのであり、意識システムは脳神経システムに対して自律性を保っている。意識システムと脳神経システムの関係は、コンピューターのソフトとハードの関係に似ているのである。ソフトはアプリケーションとデータの世界であり、(1/0)のメタ二項コードから出来ている。ハードは、ソフトがはたらくための物理的条件(電子の流れ)である。ソフトはソフトの論理(コンピューター言語)で動き、時にはハードを制御したりすることはよくある。ソフトの論理は、電子の流れには還元できない。
 とにかく、脳のはたらきとして心があるのではなく、脳も心もシステムであり、どちらも実体ではなく、はたらきにしかすぎない。社会システムも同様である。

 何か固定的な実体があり、その実体のはたらきとして、現象があるのではなく、はたらきしか存在しないのである。そのたはらきが一つの区別に基づいてるとき、システムが創発されているのである。 
 
[PR]
by merca | 2007-04-01 11:15 | 理論
<< 再参入の形式 手段にすぎない自然科学 >>