恣意性「幸福論」書評2

 次に恣意性について吟味したい。
 恣意性とは、(我々/我々以外)の境界線に必然性はなく、恣意的に境界線がひかれることである。
 例えば、人権思想についても、これはあてはまる。人権には選挙権も含まれるが、選挙権は子供や外国人には適用されない。人と言っても、子供や外国人は人権思想の適用外となる。この線引きに究極的な正当性の根拠は無く、哲学的には恣意的という他ない。民主主義や平等主義とて同様である。必ず適用範囲というものがある。絶対的な民主主義や平等主義はあり得ない。
 さらに重要なことは、人権主義者、民主主義者、平等主義者などの普遍思想を唱える者自身にとっても、この恣意性な自身の境界線は盲目的であるということである。他の観察点から観察してのみ、この境界線は透明化される。(我々/我々以外)という差別は、どんな平等主義者も拭えず、完全な平等主義は不可能であるどころか、平等主義も自身の地平としてかえって(我々/我々以外)という差別を前提としてのみ可能となる。従って、平等主義を唱える全ての解放活動もこのような差別を前提としてのみ可能である。殺人禁止という道徳規範も、(我々/我々以外)という差別に準拠していると言える。
 ちなみに、自身がよって立つ自身に見えざる地平は、大澤真幸の「行為の代数学」によれば、書かれざる囲いと呼ばれるものに相当する。
 「幸福論」では、この恣意的な境界線を一般大衆に開示してやるべきか、提示しないべきか議論されていた。ファシズムも民主主義も、(我々/我々以外)という恣意的な差別を前提としている点において、同一であり、本質的差異はない。格差社会論で言うと、格差社会の外に外国人労働者が置かれていることは盲点になっている。ニートやワーキングプアというが、それは全て日本人を意味する。もっと貧困な外国人労働者の問題は隠され、盲点になっている。つまり、三浦展などの安易な格差論においては、確実に南北問題的な格差は盲点となり、隠されている。(我々=日本人/我々以外)という恣意的な差別の上に、格差社会を批判する平等主義的言説が成立っていることを知ると、一般大衆がどう反応するのか興味深い。道徳的に混乱するのか知りたい。自己の道徳が一国に限られる相対的なものと知った時、人は、その道徳(この場合、平等主義)を本当に信奉できなくなるおそれがある。

 全ての言説は、恣意的な区別という意味地平の上に成立つ。どんな真理とてその例外はなく、全ては相対的である。例えば、自然科学は自然科学自身が前提とする恣意的な意味地平に盲目的である。社会科学や哲学からの観察によって、その盲点は暴かれるのである。恣意的区別に基づかない議論は、特定の形而上学を使用するしかない。
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by merca | 2007-04-21 11:21 | 理論
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