恣意性の克服

 宮台氏の恣意性についての考えに、システム論的思考の限界がみてとれる。恣意的に引かれた(我々/我々以外)という区別は常に動いており、それ自体変動的であり、固定的でない。システム論では、この点を捉え損なっている。
 
 世界宗教や世界帝国は、境界線の流動性を利用している。世界宗教や世界帝国においては、全ての人が可能的に我々であり、そのような外部を取り込む運動として存立している。万人が可能的帝国民あるいは可能的信者である。特に、世界宗教は人を選ばない。どのような貧民でも、受け入れる。そのようにして、世界宗教は社会=システムを越えてきた。これは一つの弁証法である。可能性レベルでは内外の区別がない普遍性(必然性)を保持し、現実性レベルでは内外の区別がある特殊性(偶然性あるいは恣意性)を保持する。普遍性と特殊性の弁証法である。このような作法によって、システム論で問題になっている事柄は乗り越えられる。ただし、対立物を外につくって取り込んでいく、ヘーゲルの段階的弁証法とは異なる。同時的弁証法である。

 (我々/我々以外)という境界が固定化していると捉えるシステム論においては、再参入によってシステムは存続しようとするが、弁証法は別の仕方で自己を維持しようとするわけである。

 
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by merca | 2007-04-22 07:28 | 理論 | Comments(0)
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