エリート論批判

 後期近代社会を排除型社会と位置付ける学者が出てきた。ジョック・ヤングである。後期近代社会論は色々とあるが、これは面白いと思った。
 
 ジョック・ヤングの「排除型社会」という書物が翻訳された。宮台一派が過剰流動性による感情的安心感の欠如を不安の根本原因として捉えるのとは少し違った視点がそこにはあった。もちろん、重なる部分も多い。
 
 さて、近代社会前期は包摂型社会であり、政治、教育、経済、法律の全ての分野において、人々を同化してきたという。大きな物語が文化的目標として機能していた時代である。ところが、消費社会化することで、価値観が多様化し、文化的目標が分散し、同化する目標を失うと、経済的不安や存在論的不安などから、排除を帰結するようになった。後期近代社会論としては、床屋談義に終始しがちなポストモダン社会論よりも、はるかにリアリティがある。
 例えば、日本社会でも、教育の分野において、エリート教育が叫ばれている。誰でも頑張ればできるという努力主義によって落ちこぼれを救いあげようとする教師も随分減ってきたと思うのである。落ちこぼれは切り捨てて、エリートの力を伸ばすることに教育政策を注ぎ込むほうが合理的だというわけである。また、刑事政策においては、犯罪者は社会復帰させるよりも厳罰化し隔離したほうがいいということになる。
 
 エリートがこの排除型社会をいかに舵取りしていくのか、そこに宮台氏の関心があるようである。しかし、エリート/非エリートの区別基準そのものがすでに排除型社会の産物であり、包摂型社会に後戻りすることはできないかもしれない。エリートはエリートであるかぎり、エリート階層の価値観しか体現できないおそれがある。昔は、学歴を身につけるか、商売で成功するなどして、下層階層からエリートに移動した人物が多くおり、官僚になったり政治家になった。排除型社会では、社会階層の移動がなくなる。包摂型社会では、エリートも非エリートも、同じ文化的目標をもつことができたが、希望格差社会論で指摘されているように、教育政策の変化のためか、子供達に文化的目標も平等に内面化されていない。

 さて、包摂型社会から排除型社会という社会変動論の解釈であるが、社会が飽和点に達したという議論も考えられる。社会が人々を同化・包摂する近代化の運動が飽和点に達した時、逆向きの運動として排除に動くというわけである。しかし、今後、排除ばかりしていては社会が回らなくなるので、包摂のほうに向かうことも考えられる。ちょうど、景気の変動と似ている。社会システムは、経済システムが不景気と景気を繰返すように、排除と包摂も繰返す。この振幅をコントロールするのが、社会工学を身に付けたエリートかどうかはわからないが・・・。
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by merca | 2007-04-22 13:15 | 社会分析
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