道徳意識・規範意識の測定

 道徳意識・規範意識は、本当に測定できるのであろうか? それを試みた論文がある。
 
 浅野智彦編「検証 若者の変貌」の第6章の浜島幸司の「若者の道徳意識は衰退したか」という論文である。
 「ニートっていうな!」の著者・後藤氏が若者バッシングとしてニート論批判を展開したのは有名であるが、社会学的には、上記の論文は後藤氏のニート論批判よりももっと意味は大きい。正規の社会調査法の手続きに従い、最近の若者は道徳意識・規範意識が希薄化しているという俗論を科学的に否定しているからである。
 
 教育会に蔓延る教育パニックの元凶である道徳オヤジ言説を駆除するだけではなく、実は、この論文が正しければ、宮台真司の成熟社会論や東浩紀の動物化論などのポストモダン社会論は、全て虚妄の床屋談義として斥けられることになるからである。実証的調査に基づく浜島幸司氏は、えらそうにポストモダン社会論を唱える思弁的論客の連中たちを破ったことになる。ポストモダン社会に入って価値観が多様化し、道徳意識・規範意識は希薄化してきているという仮説は、全て嘘になる。道徳意識の希薄化というポストモダン仮説の虚構を暴くことほど面白いことはない。

 浜島幸司氏は、時間厳守、行列への割込み禁止、ゴミのポイ捨て禁止、目上への敬語、投票、車内での化粧禁止、ボランティア参加の7つの項目で、道徳意識・規範意識を測定している。これらに共通するのは、これらを守ると人から賞賛され、逸脱すると、人から非難されるという点にある。ただし、少し甘い点は、これらを守ると自尊心がアップし、破ると自尊心が低下するということを質問していない点である。
 つまり、上記のルールを知識として採用して損得勘定で従っているだけなら、道徳とは言わないからである。ルールを自己の自我と結合させた時のみ、道徳と言える。だから、例えば、無関係な他人のゴミのポイ捨てを見たら、自分も腹が立つというレベルでないといけない。他人の反道徳行為を見たら、自己の自我が否定された気持ちになるということで、はじめて道徳として内面化したと言える。その行為が世間で非難されると言うことを知識として知っているだけでは道徳ではない。ニュースで極悪非道な殺人事件を見て、自分と無関係だけれども怒りを感じるというのは、殺人禁止の道徳を内面化している証拠である。

 ところで、私の見解は、こうである。道徳意識と規範意識が高ければ高いほど、ある種のマクロ社会環境(中間集団全体主義社会)におかれた閉鎖的対面的集団内ではいじめが発生しやすい。若者の道徳意識・規範意識が高いほど、いじめは発生しやすくなる。ただし、このことは、すでに社会学者・内藤朝雄氏が論証済みのことだと思う。道徳意識・規範意識がいじめに転化する仕組みを破壊することで、いじめは無害化される。

・集団の離脱・参入の自由選択化。
・多元的な集団所属(分属)の肯定。
・人権意識=普遍道徳による仲間集団道徳の相対化。(集団の閉鎖性の破壊)
 
 これらを可能にするマクロ社会環境が整うと、臨床社会学的には、いじめは無害化できると言える。
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by merca | 2007-05-26 10:50 | 社会分析 | Comments(0)
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