統計調査信仰の脱構築

 統計調査そのものは真実ではない。実は、全ての統計調査は、非統計的かつ恣意的な境界線をメタコードにしている。このことはあまり知られておらず、統計データをそのまま社会的事実として鵜呑みにする人たちがいる。また、統計調査そのものに(統計的/非統計的)というコードを自己適用すると、たちまち自己言及のパラドックスに陥る。

 様々な機関が実施している、多数のいじめ実態調査を調べてみたが、大学生や単位制(通信制)高校生が調査対象外となっている。この線引きは一体何を意味するのか興味深い。思うに、大学生と単位制高校生においては、いじめはあまり起らないし、いじめは深刻化しない、という暗黙の仮説=物語が隠されているのではないかと考えられる。つまり、調査主体は、調査対象の選定に関して、暗黙の内に恣意的な境界線を引く。(調査対象/調査対象外)の区別は隠蔽されており、この区別自体は調査主体が所有する物語によって恣意的に線引きされている。それを可視化するためには、別の区別で観察する必要があった。(共同体的/非共同体的)という別の区別でいじめ実態調査を観察すると、調査から大学と単位制高校が排除されているという暗黙の境界線が可視化できた。区別による観察は、このように統計調査の恣意的前提も暴露することができるのである。
 他にも、格差社会の調査などで、調査対象から日本に住む外国人が排除されていることがある。その統計調査には、日本社会は日本国籍を有する納税者のみが支えているという恣意的な物語や価値観が隠されている。
 
とにかく、多くの場合、調査主体は、自己の統計調査がどのようなコードに基づいているのかについて盲目的である。別の区別に準拠する観察者によって指摘されてはじめてわかる。原理的にいかなる統計調査も、(調査対象/調査対象外)という区別をもっており、その区別の境界線は調査主体には盲目的であり、恣意的で主観的な物語によって設定されている。質問項目の選択やサンプリング集団のことを考えると、さらにその恣意性は免れない。

 社会は、統計調査によって測定されるが、学者の作成した統計調査の構造そのものは一つの解釈図式つまり無根拠な物語であることを忘れてはならない。統計調査という解釈図式=物語によってのみ、事実としての測定結果を得ることができるのである。事実は統計調査という物語によってつくられるのである。人は、事実そのものを手に入れることはできない。手に入れことができるのは、物語によって加工された情報のみである。というよりか、物語=解釈図式という道具を通してしか情報は入手できないのである。統計調査も道具にしかすぎないのである。道具を真実と取り違えてはならないのである。また、統計的データを処理する数学理論や論理法則も、情報を整理するための道具であり、それ自体は真実でも何でもない。
 
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by merca | 2007-06-15 22:56 | 理論 | Comments(2)
Commented by telomere at 2014-03-04 16:13 x
>「格差社会の調査などで、調査対象から日本に住む外国人が排除されていることがある。その統計調査には、日本社会は日本国籍を有する納税者のみが支えているという恣意的な物語や価値観が隠されている」

それは物語云々ではなくて、単にサンプリングができないからでは(台帳がない)?野宿者もそうですね。住民基本台帳や選挙人名簿はかなり良いサンプリング台帳ですが、どうしたってカバレッジ誤差は付き物です。あと離島なども調査の困難性ゆえに母集団から外れることが多いです。サンプリングで補えない部分は、別途質的調査などで調査するしかないでしょう。ちなみに最近では、若年層の調査をネット調査で行うという試みもなされていますね。
Commented by telomere at 2014-03-04 16:21 x
>「原理的にいかなる統計調査も、(調査対象/調査対象外)という区別をもっており、その区別の境界線は調査主体には盲目的であり、恣意的で主観的な物語によって設定されている」

あくまで印象論ですが、統計調査がいろんな意味で完璧でないことは社会調査法のテキストには書かれていることが多いので、その辺りのことは理解している調査者は少なくないのでは?

>「区別による観察は、このように統計調査の恣意的前提も暴露することができるのである」

これはよくわかりませんが、質的調査ではどうなっているのでしょうか?質的調査にもいろんな恣意性や物語が入っているようにも思うのですが、やはり統計調査特有の問題なのでしょうか?
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