一個体の原理

 存在の第一原理・・・存在は常に一つの存在である。
 存在するという時、常に何が存在するのかが問われる。この何が抜けてはいかなる存在も存在しない。何がの何は、他の何かと区別され、内外境界をもつことになる。だから、区別によって存在は生ずる。境界は一性と同義である。
 
 ここで、アリストテレス的なギリシア哲学的思考から「一個体の原理」を提示しておこう。アリストテレスは、具体的個物のみが存在するのであって、プラトンのいう観念的存在=一般者は存在しないと考えた。素朴実在論の立場である。具体的個物とは、五感を通して認識できる、この石、この木、この犬、この人間、この机などある。これらは触ってみることができ、五感で触れることが可能である。その意味で確かに存在するものと言えるであろう。
 
 さて、具体的個物は、区別されておかなければならない。つまり、具体的個物が具体的個物足りうるには一つの存在であり、内と外の境界をもつ必要がある。他と区別されることで一つの存在足りうる。生命体なら皮膚によって境界が設定されており、囲い込まれることで一つの存在足りうる。自然物体である石なら同じ石の成分を構成する分子が固まっていることで、外から見ると空間的に一つの物体のように見える。机なら机としての人工物として一つの物体として観察できる。
 
 しかし、一つの存在の内と外の空間的境界は誰が定めるのであろう。生命体は、人工物や自然物体と異なる気がする。人工物や自然物体は、外からの観察者が命名してその一性が付与され、一つの存在として定義される。だから観察者が異なれば、一つの存在として定義されず、存在しないこともある。
 事例1 大きな石の上に小さな石がちょこんとのっていたとする。ある人間は、大きな石と小さな石を区別し、それぞれの石を空間的に一つの存在として観察したが、別の人間は大きな石と小さな石をあわせて一つの石と観察した。
 事例2、机を二人の人間が観察し、1人の人間は、机の平板と机の足をあわせて一つの机だと観察したが、別の人間は机の平板と机の足をそれぞれ別物だと観察した。
 事例3、二人の人間が、母亀の上に子亀がのっていたのを観察し、1人は2尾の亀として観察したが、1人は亀を見たのははじめであり、母亀と子亀が空間的に連続しているのでそれらを区別せず、あわせて一つの存在として観察した。
 事例4、宇宙人がはじめて人間を見て、人工物である服まであわせて一つの存在であると観察した。
  
 以上のような例を考えると、一つの存在の一つ足りうる空間上における内外境界の設定の正当性の根拠はどこにあるのかわからない。もしこの正当性に根拠がないのなら、宇宙には空間的に何ものも存在しなくなる。特に、自然物体や人工物は、人間が外から観察して付与された一性=区別に基づいており、一つの存在であることを究極的に証明できない。対象に問うこともできない。このように外から一性を付与されたものを命名的個物と呼びたい。その存在の根拠は人間の認識(あるいは人々の共同主観)の中にしかない。目の前に在る壷等はそうである。
 それに比べて、生命体はどうであろうか? 生命体が一つである根拠は、それを観察する人間にあるのではなく、生命体自身に自己準拠している。自らが環境と自己を区別し、境界をつくっているのである。つまり、システムとよばれる存在である。生命体もそうであるが、分子や原子もシステムである。普通は、これらは自然階層と呼ばれる。・・・原子・分子・細胞・生命体・精神・社会・・・という順番で考えられている。これらの存在は、全て自らの一性を自らで定義し、運動している。存在の第一定義である「一つであること」=一性=創発特性は、人工物や自然物体の集積物(石や砂など)と異なり、人間の主観に委ねられているわけではなく、自らが定義しているのである。生命体や分子などの自然階層をなす具体的個物は、命名的個物と区別し、システム論的個物と呼びたい。
 
 さて、素朴実在論のいう空間上における具体的個物は、このように人間から境界を付与された命名的個物と、自らが境界設定するシステム論的個物に区別される。もうおわかりだと思うが、哲学的には、システム論的個物のみが実在するのである。システムは実在するとルーマンは言ったが、宇宙にはシステム以外実在しないのである。システム以外の存在は、人間の主観がつくり出した命名的個物にしかすぎないのである。一個体の原理を追求すると、自己準拠的システムのみが真なる一個体であるという結論になるのである。
 
   社会はシステムなので、実在するのである。
 
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by merca | 2007-07-08 17:12 | 理論 | Comments(0)
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