人間学批判

 
 社会学、心理学、教育学などをあわせて人間学あるいは人間科学と呼ぶことがある。多くの大学で人間学部や人間科学部などという学部がつくられている。しかるに、人間学という学問が本当に成立つかどうかは疑わしい。実は、ルーマンのシステム論では、人間学の対象である人間は、存在しないことになっている。システム論では、社会現象の説明原理や記述用語として人間という観念を前提とせず、いかなる理論値も与えていない。というのは、有機体システム、意識システム、社会システムなどは、オートポイエーシス・システムとして実在するが、人間という観念はシステムとしての統一性=一性を欠き、システム足り得ないからである。世界にはシステムしか真に存在しえないというシステム論の立場からすると、人間学の対象である人間は存在しえず、従って人間学も成立たないということになる。極端に言うと、人間は命名的存在にしかすぎないのである。

 人間学の対象である人間なるものをシステムとして認定できないというシステム論の立場は、人間存在を前提とする人間学のみならず、人権思想や人間主義とも相反することになる。システム論を思考の前提とする多くの社会学者や情報学者の論客たちがいるが、彼等は全て非人間主義なのである。そのことの自覚は、ネットのシステム論者を見る限り、全く気づかれていないように思える。

 さて、人間学の対象である人間なるものがシステムでなく、実在しない命名的存在にしかすぎないということは、同時に人間なるものを区別するコードがないことを意味する。人間学のコードは、(人間/非人間)というコードに準拠するはずであるが、このコード自体が曖昧であり、流動的であるために、科学的に人間はシステム足り得ないというわけである。
 学問的に言うと、人間学部や人間科学部の中にシステム論を唱える学者がいること自体がおかしいのである。ただし、システム論は、人間は認めないが、社会=社会システム、心理=意識システム、生命=有機体システムは認めるので、社会学、心理学、生物学は学として成立つ立場をとるのである。もちろん、社会システムの一種である経済システム、法システム、政治システム、教育システムなどもシステムとして認定するわけだから、法学、政治学、教育学も成立つことになる。

 従って、人間学は、実質上、システム論を否定できる唯一の学問である哲学に委ねるしかない。
 とはいえ、具体的な個々の人間や動物をともに生命体システムとして平等に見なすルーマンのシステム論は、カルト的な神秘主義でもあり、人権思想を越えた絶対的生命主義なのである。それは、人権思想の偏狭さを克服する一種の形而上学なのである。
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by merca | 2007-07-28 10:55 | 理論 | Comments(5)
Commented by 山人 at 2007-07-29 20:29 x
議論そのものが間違ってますよ。ルーマンでは、生命システムと心的システムの関係があいまいで、人間のオートポイエーシス論的位置づけに成功していないだけです。社会学者であるルーマンの社会システム論からは、人間は確かに環境に属しますが、逆に言えば、環境として確かに存在しているのです。ただ、ルーマンの社会学には現れてこないだけです。
Commented by merca at 2007-08-04 08:17
山人さん コメントありがとうございます。
 人間は、社会システムの環境であるわけですが、それだけでは人間存在を積極的に観察・定義したことにはなりません。社会システムの環境であるものは、人間の他にもありますし、他のシステムも環境だからです。環境というだけでは、消極的定義であり、人間の同一性は見い出させません。同一性のない存在は確かに存在するとは言えないと考えられます。言葉だけの存在のような気がします。また、人間はシステムの要素の資格もありません。
 システム論にはやはり人間という観念は必要ないと思います。それがなくても、一応、不都合なく、理論的整合性があるからです。

Commented by merca at 2007-08-04 08:18
ただし、パーソンズの「人間の条件パラダイム」においては、システム論から人間を積極的に定義しようという試みが認められます。人間を定義しようとしたら、ルーマン型のシステム論ではなく、パーソンズ型のサイバニティックハイアラキー型のシステム論のほうが有効です。しかし、「人間の条件パラダイム」が人間をシステムと見なすことに成功しているかどうかはわかりませんが・・・。
 壮大な試であることには間違いありませんので、「人間の条件パラダイム」から逆にルーマンのシステム論の限界を包摂的に観察することが可能かもしれないと推察しています。 
Commented by 山人 at 2007-08-06 22:40 x
端的に言えば、人間は生命システムであり、同時に心的システムです。したがって、オートポイエーシス・システムとして確かに存在しているのですが、ルーマンの場合、この両者を統一するための論理が見出せていないために、人間は単なる複数システムの複合になってしまい、統一した人間理解に至らないのです。社会学者であるルーマンの関心が社会システムに集中しており、そういう考察を重視していない面もあると思いますが。ここは、哲学的に言うと、心身問題にかかわるテーマですので。ルーマンの社会システム論では人間は関心の外にあるかも知れませんが、オートポイエーシス論的には不可欠のテーマです。
Commented by 論宅 at 2007-08-11 10:08 x
それでは視点を変え、要素論からアプローチしたいと思います。確かに、心身論、つまり精神と身体の統合体として人間を観察する立場は、古くからありますね。生命システム(有機体システム)の要素は、細胞であり、心的システム(意識システム)の要素は、思考です。人間がシステムだとすると、何を要素とするのか、その要素を確定する必要があります。仮に人間がシステムだとすると、コミュニケーションではなく、行為が要素になるのではと思います。
 パーソンズは、行為システムのサブシステムとして、身体、人格、文化、社会のそれぞれのシステムをあげ、その統合として行為を捉えています。人間システムは、行為を要素とし、行為を自己産出する考えればと思います。行為が行為をつくるという発想は、仏教の業思想とも通じます。社会システムの要素はコミュニケーションであり、無論、行為とは区別されます。
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