脱社会的存在の自己矛盾

  人は道徳の外に出ることはできても,倫理の外にでることはできない。
 
 社会学者・宮台真司は、人と物の区別がつかず,人殺しに何の罪悪感や嫌悪感も抱かない感性をもつ人間を脱社会的存在と呼ぶ。宮台氏の成熟社会論(少年の怪物化神話)によれば、今このような少年たちが増えているという。人を殺しても何の罪悪感も彼らには無い。脱社会的人間は,社会における他者からの承認をすでに放棄しており,社会とは離れたところに自我を確立しようとする。従って,彼らにとっては社会に住む人間たちは全て物同然で無意味であるのだ。ところが,人と人の関係は本来どのような関係であれ,基本的に相互承認を基礎としている。つまり,自由意志(他者性)をもった存在どおしの関わりである。  
しかるに,彼らは,かような倫理的関係として,現実の日常世界の対人関係を認識しえない。本来は,自我は倫理的関係においてはじめて自我たりうるのであるが,少年たちはいじめや競争に彩られた現実の社会関係の中にそれを見出すことができず,それを社会の外に求めようとする。言い換えれば,社会の中では人間でいることができず,自身の自我を安定させることが困難なために,社会から脱したところで自我の安定を図り人間たろうとする。しかし,悲しいことかな,その試みは必然的に他殺か自殺しかもたらさず,決して自我の安定は図れず、破滅の道以外残されていない。
 なぜなら,人倫社会を離れて真の倫理的関係はないからである。自由意志をもった別の存在と関わることなしに,原理的に人間としての自我は確立できないのである。自己以外の自我つまり他者と関わらない自我は,全て独我であり,自己崩壊することは目に見えている。他者を物のように扱い手段化する自我は,他者も自分の一部として統合しようとする貪欲な独我である。また,他者とバラバラに無関係でいうようとする孤独な自我も独我である。結局,他者との同一化も差異化も独我をもたらす。従って,関係性(同一化と差異化の止揚)を基礎とする人倫社会を否定したいかなる自我定立の試みも失敗する。脱社会化した少年たちに戻るよう呼びかけること自体が,これまた1つの倫理的関係である。結局,共同体の外に出ることはできても,倫理という無限世界からいかなる人間も出ることはできない。なぜなら,倫理とは人間にとって人間である限りの宇宙そのものであるからである。
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by merca | 2007-07-29 08:09 | 社会分析
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