菊池先生と天羽さんへ


 あまりにもコメントが多くあるので、こちらの方で論じたいと思います。
 
 菊池さんが推薦してくれた「疑似科学と科学の哲学」は、以前、一度読んだのですが、再度、精読中です。
 同書からは、科学の線引き問題において、ポパーを不十分としながらも、ホパーは避けて通れない印象を非常に受けます。個人的な意見ですが、統計的検定など、社会調査法でも使用する基準がでてきますが、ポパーの反証可能性ほど明確な線引き基準はないのではと思います。
 いずれにしろ、科学の同一性をその方法や手続きに求めようとする傾向が認められます。確かに科学的知識そのものは真理ではないという謙虚さは認められ、自らを相対化していますが、科学という手続きそれ自体は、絶対化されています。

 カール・ポパーについて
 (内容/形式=方法)という観点から観察すると、内容的には科学的知識は反証可能であり間違う可能性があり、科学的知識は常に更新されていく相対的な知識であると主張しているように見えますが、実のところ科学という手続きそれ自体を絶対化しています。反証可能な命題しか科学として認めないという方法論的絶対主義です。本当に科学を絶対視しないというのなら、方法や手続きにおいても、相対化してもらいたいものです。このような脈絡からカール・ポパー以外の科学哲学に基づく疑似科学批判があればと考えたわけです。手続きに科学である根拠を置く科学観は全て相対主義を隠れ蓑にした絶対主義だと思います。

  菊池さんを始めとするラディカルな疑似科学批判者は、自らは正しい科学観に基づいているという絶対的自信があり、自らの科学観を疑うことなく、他の学説を批判しているように思えます。すくなとも私にはそのように観察されます。確かに科学が万能でないと思っておられると思いますが、残念ながら、菊池さんのブログで自身の科学観に疑問を投げかけている記述を見つけることはできませんでした。色々な疑似科学批判者のブログを検索して調べてみましたが、自らの科学観を省みることなく、他の学説に疑似科学のレッテルを貼っています。このような現状に、私は嫌悪感を抱きます。自己だけを例外として、他者言及しているわけです。疑似科学批判を自己適用してみてはと思います。

 一方、天羽さんは、人々に被害を与える個々の学説を疑似科学だと批判してきた実践的体験に基づいており、その科学観も精度の問題であると謙虚な姿勢で相対化されておられるように見えます。批判の目的も、批判のための批判や知的満足ではなく、被害防止という目的であり、それには私も共感できます。臨床的な知識に基づいた実践的な疑似科学批判であると言えます。疑似科学批判それ自体が目的ではなく、手段であるという印象を受けました。自己の科学観の絶対化のそしりは受けないと思います。
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by merca | 2007-08-21 20:35 | 理論 | Comments(8)
Commented by きくち at 2007-08-21 20:55 x
「ポパーに準拠しない擬似科学批判があれば自説撤回」はどこに行ったんでしたっけ?
前にコメントしたとおり、論宅さんはまず「ポパーに準拠」と書かれ、「ポパーに準拠しない擬似科学批判があれば自説撤回」と宣言したにもかかわらず、その後「ポパーを必要条件としない擬似科学批判があれば」と自説撤回の要件を変更されました。そして、このエントリーでは「ホパーは避けて通れない印象」だから自説を撤回する必要はないとおっしゃりたいようです。自分が言い出した条件を勝手に変えていいなら、なんでも言えます。気楽なもんです。
「ポパーに準拠した擬似科学批判」と「ホパーは避けて通れない印象」とは全く別ですよ。現代の科学哲学がホパーを避けて通れないことくらい、当然ではないですか。その上で、ポパーでは不十分であるとして「準拠しない」のですよ。

ところで、論宅さんはご自身が「自己の社会科学観を絶対化した視点」で語っておられないことをどうやって保証されますか。
Commented by merca at 2007-08-21 21:06
 菊池先生 こんばんは  
 とりあえず、菊池先生の疑似科学批判は確かにホパーに準拠していないように見えます。だから、一旦、元記事は約束どおり撤回させてもらいます。
Commented by きくち at 2007-08-22 11:26 x
ありがとうございます。意味のある批判は歓迎します。
 
僕も、反証不可能性だけを金科玉条とする擬似科学批判がないなどとはいいません。それはたしかにあります。しかし、今の擬似科学批判が必ずしも「反証不可能性ドグマ」に準拠しているわけではないのだということは理解していただければと思います。もちろん「反証不可能性」は今でもひとつの便利な判定基準であり、それで話が済む場合もありますが、それはむしろ「簡単なケース」でしょう。僕たちは「反証可能な疑似科学」や「反証されてしまった擬似科学」をいくつも挙げることができるし、そういう議論をしています。
おそらく現場の擬似科学批判にもっとも近い科学哲学は、ポパーではなく伊勢田さんのような「ベイズ主義」です。その内容は、哲学を知らない自然科学者が経験的に到達した認識に近い。
その意味で「反証不可能性至上主義」に対する批判はもっともで、その点に同意することもできるのですが、それを「擬似科学批判一般」に敷衍するのは、現状認識として誤っているだろうというのが、僕の意見であり、「実例希望」の趣旨です。
Commented by きくち at 2007-08-22 11:42 x
つづき:

で、この質問にはぜひとも答えていただきたいのですが、ご自身は「自己の社会学観を絶対化した視点」で「擬似科学批判」について語ってはおられなかったということを我々に対してどのように保証されますか。あるいは、「科学観を絶対化した視点」はだめだが、社会学については「絶対化した視点でよい」とお考えでしょうか。

僕たちは「科学は万能でも完全でもなく絶対でもないが、それに代わる合理的な拠り所はない」という立場をさまざまな場面で表明しています。
科学万能主義や科学絶対主義のような立場で擬似科学批判をしている人がどれだけいるのか、僕は知りません。少なくとも僕のまわりにはいません。ただし、それは決して「相対主義」ではないわけです。
Commented by ソーカル at 2007-08-25 20:51 x
塩川伸明・読書ノート
ソーカル、ブリクモン『知の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/sokal.htm

「一日後」と「一〇〇億年後」の間には、非常に大きな幅の時間がある。X年後という時点をとって、そのときまで太陽系およびそこにおける地球の運行に変化が起きていない確率を考えると、「一日後」では限りなく一〇〇%に近く、「一〇〇億年後」では限りなくゼロに近い。とすれば、どこかの時点については、「そうである確率は相当程度に高いが、そうでない確率がネグリジブルといえるかどうかは微妙だ」といったことがありうるだろう。ソーカルらは、「明日」と「一〇〇億年後」という極端な例のみを挙げることで、帰納的推論への懐疑は、あるケースでは全くナンセンスだし、あるケースでは言わずもがな――誰もそんな予測をしようと思わないから、わざわざいう必要もない――という風に論を運ぼうとしている。
Commented by 吉岡発言 at 2007-08-26 09:38 x
> この1年間の柘植氏の投稿記録を別表に示す。
> いくつかの掲示板から拾ってきたものを投稿時刻の昇順に並べてある。
> 時刻が赤い字になっているところは、産総研中部センターの勤務時間である。
> 9時から12時15分までと13時から17時45分までだ。
> 土日祝にはまったく投稿がない。完全週休2日だ。 
>
> 別表 柘植投稿集
> http://www.minusionwater.com/tugehihan21.htm
>
> 投稿は1年間で577通、そのうち340通が勤務時間中の送信である。
> 1日に5通も6通も投稿している日もある。

柘植氏批判 2   産総研 吉川理事長に申し上げる
http://www.minusionwater.com/tugehihan2.htm
Commented by どうにもならんわ at 2007-08-28 01:37 x
>いつ菊池さんが「「ニセ科学という社会悪を正す」が最大の目的」と言ったのだろうか。様々なネット上の議論を見て来た雑感としては、そんなことを感じた事は一度もありません。
>「ニセ科学」の問題が、いまだに科学サイドの問題だけと思っているのでしょうね。ここでは自明のことと思いますが、特に「水伝」に関しては、言語学、芸術という面から見ても、大きな問題をはらんでいます。そういったことまでは、まったく頭がまわっていないように感じました。
>投稿 corvo | 2007年8月27日 (月) 23:28
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_7168.html#comment-20407892
Commented by 詐欺師の正体 at 2007-08-28 08:18 x
要するに、「批判」という疑似餌で馬鹿を「非難」に動員している詐欺師

要するに、「啓蒙」という疑似餌で馬鹿を「運動」に動員している詐欺師
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