疑似科学批判の基準

 コメントが増えてきて一つのエントリーではおさまり切れず、ブログが重くなって来ましたので、新たなエントリーを加えていくたかちをとります。

 菊池先生 コメントありがとうございます。
 私としてはやはり線引き問題に関心が在ります。
 
 線引きの基準として、反証主義だげなく、ベイズ主義など複数の理論があることはわかりました。さらに対象によって、違う基準で対応して疑似科学として批判するというのも確かに実践的ではありますね。そこで、疑似科学批判にも慎重派とそうでない区別はあるのでしょうか?

 天羽さんは疑似科学と呼ばれるものは、全ての基準からしてやはり疑似科学である場合が多いとしています。ある意味、一つの基準だけからは判断できないという慎重派であると思います。一つの基準を絶対化しない意味とも受け止められ、科学観の絶対化は免れています。菊池先生も基本的には、基準の複数性を認めていると思いますが、ある基準からは疑似科学であるが、別の基準からしたら疑似科学でない場合、どのように判断するのか知りたいです。
 例えば、反証可能な命題から構成されているが、ガードナーの奇妙な論理からすると、疑似科学であるとかです。
 複数の基準に優劣関係があり、例えばべイズ主義が一番であり、奇妙な論理は一番下であるとか・・・。
 おそらく、個々の疑似科学批判論者にとって、その優劣関係は異なると思いますが、全ての基準があてはまるような学説は疑似科学として認定されても仕方ないと確かに思います。しかし、一つしかあてはまらない学説に対しては慎重に取り扱って欲しいです。
 ちなみに、社会科学(特に社会調査法)の場合、妥当性と信頼性という二つの基準が尊重されます。自然科学の基準からしたら、かなり曖昧でゆるいものとしてうけとめられるかもしれません。
 個人的意見ですが、「社会学者マートンの科学の四つの規範」は、権威的な科学者集団のイデオロギーとして解釈されてしまう可能性が高く、やはりゆるいと思います。私は社会学を専攻するものですが、マートンよりも、内容的に定義した他の基準のほうが説得力があるように思えます。
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by merca | 2007-08-22 22:37 | 理論 | Comments(5)
Commented by きくち at 2007-08-22 23:11 x
僕は「グレーゾーン」の存在を前提としています。つまり、「科学と擬似科学の境に線は引けない」という立場です。天羽さんや学習院の田崎さんもそうですし、最近の「ニセ科学批判」に関わってこられたかたの多くが「グレーゾーン有り」の立場なのではないかと思います。
現場の感覚としては、やはりそうならざるを得ません。僕たちが伊勢田さんのベイズ主義に共感するのも、一本の線を引かずにグレーゾーンを認めるからです。
逆に、明確な線が引けると考える科学哲学の流儀に対しては、科学の現場と乖離した「机上の空論」という感じがぬぐえません。
ですから、僕たちが批判する擬似科学は「さまざまな意味で、グレーゾーンを遠く離れた"どうみても擬似科学"」なものです。線は引けないが「ほぼ黒い」ものは黒いということです。
無論、それですら人によって評価は分かれるのかもしれませんが、評価の分かれるものは議論すればいいわけです。
いずれにしても、すべてのものを無理に「科学か擬似科学か」と分類する必要はなく、グレーなものは将来の評価にまかせてかまわないと思います。
Commented by きくち at 2007-08-22 23:11 x
つづき:
 
基準が多様になってしまうのは必然的で、たとえば擬似科学には(1)反証不可能でポパー的に見て科学ではないもの(2)反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの(3)反証可能で直接には反証されていないが、他の科学知識と整合しないので反証する必要のないもの(4)反証可能だが実証も反証もされていないにも関わらず実証されたものであるかのように詐称しているもの、などさまざまなパターンがありうるからです。
「すでに反証されてしまっているもの」が今なお流布していたりするところが現実の擬似科学問題のどうしようもなさなわけです。
すべての基準に当てはまるものだけを擬似科学とする、という立場でもなく、それぞれの事例について「なぜこれを擬似科学と判断するか」について個別に説明するというところかと思います。 
 
ちなみに、僕の感覚では、ガードナーは少々厳しすぎます。ガードナーにかかったらたぶん漢方薬や鍼灸も擬似科学になっちゃうと思うのですが、僕はそういう立場に与しません。
(もちろん、ガードナーは重要です)
Commented by 比ヤング at 2007-08-22 23:29 x
一つの問題点は、【その分野の専門家】にとっての「科学」と、【その分野の専門家でない者(科学者を含む)】にとっての「科学」とでは、大きく異なる、という現実を
軽視していることだと思います。この現実は、科学者の科学観批判(http://mercamun.exblog.jp/7206299/)で貴方も指摘するところですよね
Commented by エディ at 2007-08-23 01:32 x
私は、菊池「先生」と天羽「さん」の違い(使い分け)に興味があります。
Commented by きくち at 2007-08-23 01:48 x
補足:
少なくとも僕の考える「ニセ科学性」とは、あくまでも「その時点でのニセ性」です。もしかするとそれが将来「科学」に変化するかもしれないが、そのことが現時点での「ニセ科学性」に対するいいわけにはならない、ということです。
「反証可能だが実証も反証もされていないにもかかわらず、あたかも実証されているかのように主張されるもの」なら、将来実証される可能性があります。しかしながら、それを現時点で「すでに実証されたものであるかのように主張して商品化」したら、やはりそれはニセ科学です。
実例を挙げると、「マイナスイオンの健康効果は実証されていないので、健康効果を謳うものはニセ科学商品である」ということですが、もしかしたらそのような商品の中から将来、なんらかの効果が実証されるものが出てくるかもしれません。しかし、そのことが現在の「ニセ科学性」に影響するわけではないということです。
当然ですが、ニセ科学とされるものを対象として科学研究をすることはできるし、その研究が必ずしもニセ科学となるわけではありません。
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