自然科学の前提

 世界を(必然/偶然)というコードで観察すると、(自然)科学は必然をマークして創発された学システムである。 
 自然科学は、一つの信仰を前提としている。それは、世界は必然であるという信仰である。自然科学は、現象を因果図式にあてはめて観察し、普遍的な因果法則を発見することを目的としている。人間がどう思おうが、水は100度を越えると気体となり、蒸発する。この因果法則は、社会共同体を越えて変わることのない必然の法則である。自然科学が発見した必然の因果法則に基づく技術や商品には、ニセ科学という診断は下されないと考えられる。
 さて、世界を(必然/偶然)というコードで観察すると、社会(科)学は偶然をマークして創発された学システムである。
社会学(特に社会システム論)は、世界が偶然であるという信仰を前提としている。社会はコミュニケーションを要素としており、コミュニケーションは二重の偶有性(ダブルコンテンデェンシー)に基づいている。パーソンズ社会学やルーマン社会学では、このような偶然性を前提として理論構築されている。ダブルコンテンデェンシーとは、自他がどのような行為を選択するかは究極的に偶然であるということである。その偶然性を逓減し、コミュニケーションのコストを減らすためにメディア(貨幣等)が使用される。そういう難しい専門用語を使わなくても、自他が自由意思で選択して行為しており、自由意思同士のせめぎ合いとして、現実の社会があると考えてもらえばと思う。偶然性をいかに人間や社会が処理しているのか、そのような観点から記述され、理論構築される。
 また、人の心=精神に自由意思を認めるのなら、精神分析学や心理学も偶然を前提としていることになる。解釈という方法で、心を記述していくことになる。

 ちなみに、社会学的に、宗教や神話がどのような機能があるか説明したい。ある人間が伝染病にかかり、障害が残ったとする。この場合、科学的に説明すると、ウィルスが体内に入り、感染し、障害をもたらしたというかたちで、因果説明がなされる。これは科学的に正しい。どんな社会に属する人間も、そのウィルスにかかると、そのような羽目になると考えられる。しかし、人はそれだけでは納得しない。なぜ自分だけがたまたまそのウィルスにかかり、他の人はかからなかったのとか不満を抱く。その出来事を偶然の不幸として捉える。生まれながらなぜ自分だけこのような障害をもって生まれたのかと悩む人もいるが、偶然としか言えない。たまたまその人にそのような因果関係が起るような事態が生じたことは偶然なのであるが、人は科学的因果関係それ自体が自分だけに起った原因を求める。これは、科学的因果関係それ自体に因果関係を適用するという自己言及のパラドックスを意味する。(原因/結果)という区別に(原因/結果)を自己適用していることになる。
 そこで、偶然の不幸に解釈を与えるのが宗教や神話つまり物語の役目である。言い変えれば、偶然の不幸は、科学ではなく、宗教や神話という物語によって処理される。これをマックス・ウェーバーは、苦難の神義論と呼んだのは有名である。例えば、生まれつき、障害があるのは、神の与えた試練や前世の悪行のせいであるとか解釈される。もちろん、説明や解釈の仕方は、個々の宗教によって異なる。

 自然科学が対処できるのは、世界の必然である部分だけである。世界の偶然である部分は社会科学や人間学が扱うことになる。両者の統合、信念対立の解消は、弁証法哲学や構成構造主義などの哲学によって扱われることになると考えられる。 
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by merca | 2007-08-30 01:03 | 理論
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