ニセ科学と自己責任

 (科学/非科学)という区別について、(自己責任/自己責任でない)という区別から観察してみたい。

 はなから、非科学である占い、ジンクス、縁起物、宗教等であると宣言しておけば、そのリスクは信じた者の個人責任に帰着させられる。例えば、神社で厄払いのお守りが売られており、それを買った人が不幸になったとする。その人は神社を訴えることができるのか?あるいは、占いがあたらなかったとして、占い師を訴えることはできるのか?また、ある宗教を信じているのに、不幸になった。宗教団体を相手に訴えることができるのか?できないであろう。これは、信教の自由と関係してくる。どんな宗教や信仰を信じようとも、個人の自由であり、その限りにおいて、個人が自己責任をとることになる。
 
 ところで、それが科学的知識であるとどうだろうか?ある薬があり、科学的に効能が実証されていますと書いており、実際、効能がないと科学的に反証された場合、訴訟を起こすことができる。この場合、科学という言葉を妄信した被害者には責任がなく、科学的でない薬を売った会社や販売を認可した厚労省が摘発される。このように、ニセ科学の被害者は、自己責任を回避できる。

 同じ知識でも、非科学的知識を信じる場合は自己責任、科学的知識を信じる場合は他者責任あるいはそれを管理する国家責任となる。この区別は、端的に現代社会では、科学的知識のみが特権化されていることを表している。つまり、科学的知識のみが真理であると思われているし、そのように制度化されている。行政と科学は切り離せない。国家一種試験に様々な科学を専攻している者を採用する仕組みがあることからも、それは伺える。科学的専門的知識を身に付けた者のみが技術官僚となり、国を動かすことがてきる。
 
 ともあれ、科学的知識が特権化されていることが、やはりニセ科学現象とニセ科学批判を取り巻く社会状況なのである。もし科学が相対化され、宗教的知識や占いと同列に社会で扱われていたら、このような摘発も行われないのである。社会的には、科学は、他の知識より特別視されており、絶対化されている。科学が絶対化された社会状況の中で、ニセ科学現象とニセ科学批判が闘争している。(無論、当事者が主観的にどのように科学を捉えているかとは別問題。社会学では、内容が本当はどうかということにかかわらず、どう見られていくのかという視点から現象を記述していく。)
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by merca | 2007-09-01 00:28 | 社会分析
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