仮説検証


 撤回した仮説について、もう一度、吟味したい。

疑似科学批判が流行る理由は、明らかである。
 社会学的に言うと、現代社会のイデオロギーとして科学が機能しているからである。つまり、科学という言葉だけで人々は思考を媒介とせずにそれが真理であると信じるわけである。このような知識社会学的な社会状況を背景に、科学のイデオロギー効果を利用して人々を騙すのが疑似科学である。それは、虎の威を借りた虚偽知識である。アカデミックな本当の科学の立場からこのような虚偽知識を批判するのが、疑似科学批判をする論客たちなのである。
 しかし、科学を絶対視する点においては、疑似科学もそれを批判する者も同じ観察点にいる。この盲点に自覚的な論客は少ない。多くの疑似科学批判論者は、疑似科学批判の背景には、科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理があることを理解していない。言い換えれば、自己の理論の前提に盲目なのである。学問的には、このままでは、目くそ鼻くそを笑う域をでない。

  検証
 まずは、科学が現代社会のイデオロギーとして機能しているという命題が正しいということを前提にして議論を進めている。従って、「科学は他の知識と違って特権化されている」「科学というだけで思考を媒介とせずに信じる」という命題を検証する必要がある。社会調査法の技法に基づいて質問紙調査で検証することになる。しかし、そもそも国家施策が宗教や占いよりも科学と呼ばれる理論を重視していることは明らかである。文部科学省という名前もあるくらいである。厚生行政が科学に基づかなかったら大変なことになる。

 科学が現代社会のイデオロギーとして機能していることが正しいという前提で議論すると、科学者の言説は、真理として人々に伝えられ、人々に絶対視される。科学が間違うという意識がなく、盲目に信じる。科学者によるニセ科学批判も、ニセ科学と同じように、人々に盲目に信じられてしまう。その結果、科学信仰は強まり、自身で科学を懐疑する意識が希薄化し、さらに科学=真理であるというイデオロギーが強化され、科学と称する知識に騙され、ニセ科学被害者がでる。ニセ科学批判が科学への盲信を強化し、ニセ科学被害をつくる。このような未来仮説は社会構築主義者なら簡単につくることができる。ニセ科学批判がニセ科学問題をつくるという仮説である。(この仮説は嘘である)
 
 このような仮説が本当になるためには、人々が科学信仰(イデオロギー)に基づいて科学的言説を(真/偽)で単純に観察し続けることが前提となる。科学理論を知らない大衆から観察したら、ニセ科学もニセ科学批判の言説も、それぞれ反対の項にあたるが同じ区別に基づいている。単に(科学的/非科学的)という区別であり、科学という項が真であるという信仰である。(ニセ科学批判=真/ニセ科学=偽)というだけであり、(科学的/非科学的)という区別は温存され、強化される。「自己の理論の前提に盲目なのである。」というのは、自己の言説がどのような区別で観察されてしまうかということに盲目であるという意味である。実は、盲目であるのはあたりまえである。他の観察者がどのような区別で観察してくるかは他の観察者の偶然性に任されるからである。
 ちなみに他の観察者がどのように観察しようと、それは他の観察者の任意であり、それを論破することはできない。論破できるのは、同じ区別に基づいている場合だけである。ニセ科学批判がニセ科学に対して論破できるのは、まがいなりにも科学という共通の前提=(科学/非科学)という形式的区別があるからである。論争には共通の前提が必要なのは、常識である。(とりわけ、科学と呼ばれるものは一つであるべきだという規範意識は重要である。科学が特権化・絶対化される社会では、この規範意識は科学者に内面化していると思われる。)
 自然科学の素人である私も科学的実験で実証済であるという商品を買うであろう。また、それがニセ科学としてレッテルを貼られると、買わないだろう。私=大衆は科学やニセ科学を十分に知らないからこそ、このように観察してしまうのである。内実を知ってしまうと、何を基準にしていいのかわからなくなり、選択し辛くなるのである。

 注意 
 ニセ科学批判者が「科学を絶対視する」という命題は間違いである。しかし、他の観察者、特に科学をイデオロギーとして内面化している人々にとっては、絶対化しているように観察してしまうおそれは大きい。
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by merca | 2007-09-01 08:46 | 社会分析
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