科学者の科学観

 田崎さんの科学観
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/SandU.htm

「普遍の構造」が自然に宿っており、それを認識することが科学であるという立場である。極めて物理的リアリティに立脚した考えである。科学の公準よりも、どちらかというと、私もこういう考えに共感できる。

 一つ気になるのは、社会学は科学の敵であるというイメージである。社会学は相対主義のレッテルを貼られている。科学的真理は学者がつくったものであり、客観的真理ではないという立場である。一般にこれは社会構築主義と呼ばれるものである。

 このような誤解は、社会構築主義あるいは社会構成主義のメタコードを知らないことからくる。システム論社会学者・馬場氏からの引用であるが、社会構築主義のメタコードは、(つくられたもの/つくられざるもの)という二元コードからなる。
 前者は社会的リアリティに対応し、後者は物理的リアリティに対応する。社会学が言いたいのは、科学的真理は、どちらからの視点からも、観察できるというだけのことである。科学的手続きで社会的に正当化されたイデオロギーとして科学的真理を観察して記述することも可能であるし、一方で科学的真理の内容それ自体は、つくられざるものであるという観察も可能である。このメタ区別をはっきりとさせないことから混同や誤解や信念対立が起る。

 自然科学はそれでよいと思うが、こと社会を対象とすると、普遍の構造は存在しない。社会法則のエントリーで述べたように、人々の考えや意思が変われば、社会法則も変わる。社会や文化という人間の相互作用でつくられたものに対しては、自然科学とは異なる記述の仕方が求められる。
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by merca | 2007-09-03 16:17 | 理論 | Comments(15)
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-06 04:18
はじめまして
構造構成主義でググって来ました。
水伝ですが、以下のように考えればいいと思います。

たとえば、A氏が偽札にて商品を購入しようとします。
偽札は非常に精巧にできていて、銀行員でも、偽造通貨を判別する最新鋭の機械でも判別不可能です。
B氏は本物の紙幣にて商品を購入しようとします。
ただし、機械は紙幣を紙幣として認識できない状態です。具体的には、たとえば一部破れていて全体の2/3しかなく、しかも、醤油をこぼしたりして透かしが見えにくくなっており、磁気情報も、強力な磁石と一緒においていたので、消えてしまっています。コンビニの店員では、正当な通貨として判定困難な状態ですが、銀行が「正当な紙幣」だと判定するに足るだけの条件をぎりぎり備えていたとします。
さて、A氏が自動販売機に向かって「これは偽札だよ」といって、商品を購入しました。音声認識機能の付いていない自動販売機は紙幣の磁気情報と透かしの有無、印刷の状態等を判別して「本物」と判定し、商品を出しました。
B氏は自動販売機に向かって「これは本物だよ」といって商品を購入しようとしましたが、自動販売機は商品を出してくれません。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-06 04:19
「水は答えを知っている」のレベルは、(音声認識機能の付いていない機械に対して、)「これは偽物だよ」とか「これは本物だよ」と口に出して言えば、上述の機械の判定が変わりうるというレベルの主張をしているわけです。

「水は答えを知っている」の根底にあるもの、それは、通貨の正当性の判断基準を
1.社会学レベルにて用いている通貨と対価物(通貨を含む)との交換可能性の高さ
2.自然科学レベルにて区別しうる通貨の状態
といった観点からみるならば、1での「思い・情」(念)を、2のレベルがどうして判定してくれないのか?といったことと等価です。

ようするに、1のレベルでの正当性の判定が必要なのに、「心の正しさ」(※)さえあれば、2のレベルにて判定できるかのように記述することで、社会学の不要性を説いているのと同じなわけです。

※「水は答えを知っている」の実験系では「心の正しさ」レベルではなく、単に「ありがとう・ばかやろう」といった文字」のレベルです。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-06 04:48

「水は答えを知っている」が「物語」であるという主張は、問題の根底をすり替えるだけではなく、二つのメタコードをごちゃ混ぜにしつつ、自然科学と社会学といったレベルの区別を蔑ろにし、さらなる対立を生み出しうる危険性が潜んでいると考えています。
Commented by 来生さま at 2007-09-06 05:08 x
実際問題として、「科学」として受け取る場合と「物語」として受け取る場合の両方がある訳です

「物語」として受け取る人達がいないという前提は極めて非現実だと思います

現段階で、どの程度の人が「科学」として受け取っていて、どの程度の人が「物語」として受け取っているのか?、ということは重要な部分だと思います

http://hpcgi2.nifty.com/k-tabe/yy-nifty/yy-nifty.cgi?mode=res&no=261
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-06 05:17
「物語として受けとる人がいない」といっているわけではありません。
「物語として受けとる人がいる」ということが問題だと思っています。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-06 05:36
物語として受けとってはならない部分を区別してこそ、物語の奥深さがあるわけですが、「水は答えを知っている」は、その境界部分が「ない」(自然科学と社会学の区別が「ない」)というレベルにて、物語化しようとしているわけです。

構造構成主義と絡めて言えば、このことは稚拙ブログ
「対立がない」という対立。。。
http://jinen.exblog.jp/1675349
にて述べていることと関連します。
Commented by 田崎 at 2007-09-06 08:06 x
特に江本氏周辺、及び、信者を含めて、彼らが

科学として扱っていることが問題である

と私は思っているのですが、科学ではなく物語として扱っている分にはそれほど問題を感じません。科学として受け取って意味があるようなところは水伝にはない、と思いますが。物語としてしか受け取りようがないので、区別がないのは当然です。

むしろ、科学と物語が混在している方が混乱する、と思います。水伝でさえ、そのような混乱を引き起こしている人が一部にいるのは分かります。問題は混乱している人が実際にどのくらいいるのかです。子供だって、授業の雰囲気で(教師の期待に応える反応をする結果として)その場では混乱しているように見える振る舞いをすることは多いと思いますが、それは本当に混乱しているのとは別の話です。しかし、子供の一部には実際に混乱し一時的にその状態が続くケースがあるのは分かります。

混乱を引き起こす場合があるという意味で水伝が好ましくないというのはその通りでしょう。であればこそ【水伝をどのように取り扱うと、混乱がどの程度、引き起こされるのか】ということは重要な問題のはずです。
Commented by kikulog-ne at 2007-09-06 13:02 x
ニセ科学批判批判者に告ぐ

ABOFAN、SSFS、吉岡を筆頭に

キクログに侵攻せよ!!!

津村ブログ攻防戦で相手は弱っている。今こそ、壊滅だ
Commented by 論宅 at 2007-09-06 22:17 x
kisugi_jinen様 論宅です。コメントありがとうございます。
「水伝問題では、道徳の根拠を他者とのコミュニケーション過程つまり社会的リアリティに求めずに、水=自然という物理的リアリティに求めるところに確かに問題は認められます。人倫を越えた自然法則に、道徳の根拠を求めるという誤謬を犯しています。ただ、水からの伝言は、必然の自然法則でもなく、単なる物語程度のものですが。」
 の部分と重なると思います。物理的リアリティと社会的リアリティの混同があるということですね。結局、水伝は、科学として捉えても、物語として捉えても、間違いであり、有害だという結論でよろしいでしょうか?
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-07 03:52
論宅様
子供が成長していく過程を、まさに今、私は実の息子・娘にて経験させていただいております。
成長過程において、概念が形成され始める当初、物語と科学との峻別は不可能です。
サンタさんがそれほど有害ではないと思われているのはなぜでしょう。
親同士の間にても言わずもがなの峻別があるからでしょう。
逆に子供の躾けに利用することも多いでしょう。
物理的リアリティの有無に関わらず、社会的リアリティレベル(物語レベル)のみで十分に扱いうるからこそ、無害だという暗黙の了承が働いているのではないでしょうか?
「水は答えを知っている」にて、「物語性」という隠れ蓑を選択することを許すのかどうか、それは各分野・各人にて「物語」という概念をどのように位置づけるのか、と相同の問題になろうかと思われます。
ちなみに、医療を巡る領域を外部から覗き見た場合でも混乱は少なからず生まれます。

http://jinen.exblog.jp/7206125/
EBMとNBMと構造構成主義と。。。知と情と。。。
Commented by 来生さま at 2007-09-07 04:40 x
>「水は答えを知っている」にて、「物語性」という隠れ蓑を選択することを許す

いや、それは逆でしょう。どう見ても「科学」でないことは明らかですから、「物語」は隠れ蓑でもなんでもないですよ。

逆に、「物語」に【「科学」という隠れ蓑】を着せているだけですから、その「科学」という隠れ蓑を剥いで扱えば問題は特にないんです。

中身は科学だけれど、それに物語という隠れ蓑を着せた【科学教育用のマンガ】のようなものとは、話が逆です。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-07 05:10
論宅様
誤解を生みそうなので、少し付け足させていただきます。
「サンタさん」は「物理的リアリティの有無に関わらず社会的リアリティ(概念・物語1)にて扱いうる(概念・物語2)」
http://jinen.exblog.jp/6250308
ということに対して
「水は答えを知っている」は「物理的リアリティの有無を社会的リアリティ(概念・物語1)と等価として扱っている(概念・物語2)」
になると思います。
サンタさんの「物語1」のレベルでは、当事者レベルで様々な「物語」が構成可能であり、それだけで楽しくなってしまうものです。
サンタさんの「物語2」のレベルは、「物語1」のレベルに対して何ら制約を加えるものではありません。それゆえ、「物語1」レベルの多様性が担保されているともいえます。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-07 05:10
しかしながら、「水は答えを知っている」では、「物語2」レベルを許容した途端、「物語1」は物理的リアリティの有無にて決定してしまいうるということになります。
その途端、サンタさんで見られた「物語1」のような多様性が失われてしまうのではないでしょうか?
そのことをもって「有害だ」と判断するかどうかは、「物語というものをどのようにとらえますか?」に対する各人の態度そのものにゆだねざるを得ないと思います。
Commented by 来生さま at 2007-09-07 05:37 x
「物語2」のレベルを剥奪して扱えばいいので、
これっぽちも科学ではないと扱うということです。
また、事実そうなのですから
Commented by 良エントリー at 2007-09-08 06:47 x
■「ニセ科学批判」批判のための覚書
http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20070906/p1
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