スピリチュアルと科学

 最近、スピリチュアル本のコーナーに「水からの伝言」はある。大手書店は科学という扱いをしていないようである。

 言葉の意味内容や心の状態に水が反応するという因果図式は、現代の科学と矛盾する。ましてや水に心があり、人の気持ちを理解することなどは到底考えられない。

 ところで、祈りと言うものがある。人は肉親が病気になると、病気が治るように神仏に祈ることがよくある。祈りが原因で病気が治癒したという因果図式も、現代の科学と矛盾する。言葉の意味内容や心の状態と物理世界は無関係である。スピリチュアル批判の根底には、精神が物理世界を自由に操ることへの反発が見てとれる。

 さて、精神が物質に影響を与えてはならないということは、意味システムが、有機体システムや物理システムとは無関係であることを意味する。社会も個人意識も意味システムである。意味システムとは、三次元体=物体に境界線をもたないシステムである。しかし、システム論では、社会システムも意識システムも、有機体システムや物理システムと同等の実在性をもつと考えられている。

 しかし、厳密には人間の精神(意識)が物体に影響を与えることは可能である。例えば、自分の意思で簡単に目の前にある茶碗を移動させることができる。また、木に彫刻を彫り、一つの芸術作品をつくり、これは私の気持ちを表していると、人に伝えることもできる。科学者が実験できるのも、科学者の目的意思という精神のはたらきによって、物理現象を統制し、観察できることが可能だからである。科学技術が自然をコントロールし、人間の夢を叶えるというのは、まさしくこの図式である。実は、精神が物体をコントロールするということをやってきたのは、当の科学のほうなのである。

 言葉に水が反応するという因果図式は現代の科学と矛盾するが、「ありがとう」という音声や文字に反応し、一定の氷の結晶をつくる機械を開発することは科学技術では可能かと推察される。綺麗な結晶ができる条件を科学的に分析し、その条件を再現する凍結装置をつくり、あとは「ありがとう」という音声に反応するセンサーをつければよしである。科学は人間の物語を実現化するのである。その究極形態が人間型ロボットである。
 水伝のように嘘に頼らなくても、これで十分である。機械を使用すれば、水伝現象は物理的に一部本当になる。科学が人間の願望にあわせてどこまで世界をつくりかえることができるのか期待したいところである。ついでに言うと、法制度や組織は社会科学がつくりだした目に見えない機械である。

          空想科学もニセ科学の一種なのだろうか?
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by merca | 2007-09-09 17:51 | 理論 | Comments(4)
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-10 02:09
いや、はっきり言って仰るような装置を作ればいいわけです。
「恣意性」(主観側)の思惑を直接的・意図的に反映させるようにしさえすればいいわけです。

しかし、それは「自然」科学的ではない。
「自然」科学的だというのは、「人為性(工学的)」を含む「恣意性」(主観側)を極力排除したところ、すなわち「誰にとっても同じになるような状態(主観側の交換可能性の高い状態)」を求めるものでしょう。

機械を介在させる場合、観測対象にとって、「交換可能」な機械が必要になる。
この「交換可能性の高さ」は尋常ではなく、「機械があっても無くても」というレベルまで含む。
「(機械を作る)人がいなくても」、「機械が無くても」といったレベルでの現象について、記述しようとすることが自然科学的なわけで、交換可能性の最も高いレベルについて取り扱うのが自然科学ということになるわけです。

水伝を疑似科学とする方々は、暗黙裡の内に、上記前提条件での自然科学を「科学的」と表現する傾向を有しておられることでしょう。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-10 02:21
主観を極力排除したところに自然科学があるということは、すなわち客観性の高さの極に自然科学を置こうとする(恣意的な)分類になるでしょう。
で、逆説的に言えば、主体側(主観側)の意図のレベル・構造に応じて、「自然」科学とか「社会」科学とか、あるいは、「工」学とか「理」学とか「数」学とかが分化していると考えられるでしょう。
これら分野は構造構成主義的に「ある」とも言えます。
で、構造構成主義(というより竹田現象学)では、対象や主体の存在を前提条件としてはいないようです。「関係性」を中心として捉えようとしているようです。ようするに「関係性がある」を共有可能であるならば、その関係性の両側に主観側と対象(自然科学的には客観的対象)とが「ある特定の構造を有して立ち現れる」という概念のようです。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-10 02:50
「逆説的に」といったレベル、すなわち「主体側(主観側)の意図のレベル・構造に応じて」は、非常に需要だと思います。
どういったレベルの科学であっても、そういった「構造がある」にもかかわらず、「ない」と主張する人々がいれば、「それは別のレベルの科学でしょう(あるいは、擬似○○科学でしょう)」ということになると考えます。

※一つ前野コメントで「分化」は「分科」の間違いでした。
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-11 04:49
一つ前野コメント:需要→重要、でしたm(_;_)m

ニセ【自然】科学批判を行なっている人々が尊大だと感じざるをえないのは、上述の理由によることでしょう。

「人・人為・恣意性」を排除した(というか、これらの「完全なる」交換可能性を追求した)極にて見出されうる法則性・規則性について論じようとすることになるからです。

客観性の極めて高い(交換可能性の極めて高い)事柄に対して真偽を述べようとするならば、それは、ある種「神の視点」の如くにならざるを得ないでしょう。

そういった発言に対して「尊大さ」や「全体主義的な感覚」を覚え、人格否定的な感覚を抱きうる場合、発言する側と受けとる側両者の「交換不可能な主観性」と「客観性」との関係が異なっているのではないでしょうか?

構造構成主義的に言えば、これらの対立の背後には、主観側(恣意性)と客観側(交換可能性)とを切り離しうる(二元論的思考)と、主観側と客観側とを切り離しえない(一元論的思考)という二つの概念が、無意識の内に構成されているのでは?と思います。
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