神の視点

kisugi_jinenさん いつもコメントありがとうございます。私もメタ議論しかしていないとよく批判されますが、kisugi_jinenさんの哲学的思考には非常に親和性を持ちます。
 
 自然科学者が神の視点に立ってしまっているというkisugi_jinenさんの議論は、今までにないニセ科学批判批判です。私なりに解釈してみたいと思います。

 交換可能性(共有可能性)の程度は、客観性の程度と同じである。要するに、多くの人が同じ視点や認識枠組を共有できるのなら、その分、それで得た知識や思想や理論は客観性があることになる。自然科学という認識方法は、その極地であり、万人が身につけることができる認識枠組み(視点)である。つまり、完全な交換可能性(共有可能性)をもつ唯一の認識枠組である。従って、誰でも自然科学の認識方法を身につけると、同じ対象は同一に記述でき、真理は一つとなる。つまり、万人が納得する普遍的真理というわけである。
 自然科学のみが完全な交換可能性をもっているかどうかは疑わしいが、もし本当にそうなら、人間にとっては絶対的真理であり、神の視点と同義である。そして、自然科学という名の神学を広める宣教師がニセ科学批判者ということになる。すくなとも、ニセ科学批判者が自然科学は万人に共有可能性をもつ認識方法であると信じているのなら、そういうことになる。
 しかし、よくよく考えてみると、人が認識方法を共有するということ自体は、社会的リアリティの次元(共同主観的)ことでもある。そうすると、完全なる社会的リアリティこそが物理的リアリティであるということになるまいか? 完全な交換可能性(共有可能性)=完全な社会的リアリティの可能性を備えた自然科学は、同時に主観を離れた自然という対象を言い当てた真理でもあると思われてくる。
 しかし、上記が成り立つのは、認識主体と認識対象が完全に分離しているという場合だけではないかと思われる。自然科学者は、認識主体と認識対象の分離という哲学に立脚しているのである。

 さて、認識主体と認識対象とは同一であるという哲学もある。西田哲学である。純粋経験つまり認識内容がまず先にあって、あとから反省すると、主観=自と他=対象の分別が生ずるという哲学である。このような理論構成は、仏教の唯識論や自他不二を唱える大乗起信論などにも認められる。あるいは、対象の実存性を判断中止した現象学も、ノエスシ-ノエマという構造としてこれを捉えている。この立場からすると、真偽という概念自体があり得ない。最初から一つのものが分割されたということは、分割された両者はパズルように一致するからである。(常に対象と認識は一致する。全ては真であり、偽はない。)

 認識主体と認識対象は別異でもなく同一でもなく、両者は対等に関係しあっていると捉え、どちらにも認識内容の原因があると捉えるのが妥当であるように思える。認識主体の側に一方的に認識内容の原因があるのなら、独我論となるし、対象の側に一方的に原因があるとすると、素朴実在論になる。認識主体の普遍的同一性を唱える自然科学は、素朴実在論と本質は同じである。万民の主観が同一なら、万民の主観の差異は無化し、白紙となり、認識作用の模写説とも同じになってしまう。

 認識とは、自己(主体)認識でもなく、他者(対象)認識でもなく、自他の関係性それ自体の認識だと言える。むろん、自他の関係は常に変化する。

 少し脱線しましたが、もう少し考察してみたいと思います。 
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by merca | 2007-09-11 23:20 | 理論 | Comments(3)
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-12 02:40
主観・客観を含めた交換可能性については、以前、過去に記述した目次
http://jinen.exblog.jp/6082785
があります。
また、目次にまで組み入れていませんが、
存在の相対性。。。脳とこころと。。。4。。。
http://jinen.exblog.jp/3516712/
とか、
を記述しておりますので、参照いただければ幸いです。
で、主観・客観の切り離し不可能問題は、哲学的な視点からは、竹田氏がカントに関して触れておられますが、自然科学的な視点からは、いわゆるコペンハーゲン解釈やエヴェレット解釈などといった「一元論、二元論解釈問題」として扱われる範疇の問題にも結びつきます。
(主観と客観と交換可能性。。。http://jinen.exblog.jp/345889)
これら、解釈問題を、構造構成主義的な概念にて捉えなおすならば、「個と全体・総体」という概念形成の立場から考察しなければならないでしょう。このあたりは、下記にてまとめてあります。

二元論と一元論と。。。知的切断面と総体と。。。
http://jinen.exblog.jp/4044620
Commented by kisugi_jinen at 2007-09-12 02:57
あと、私の立場は、「ニセ科学批判批判」ではありません。
もうひとついえば、「社会科学」のレベルまで「完全なる交換可能性」を担保しようとすれば、完全なる自由主義か、完全なる社会主義とかを想定しなければならないのではないでしょうか?
そうではない、各人の恣意性や情が絡み合ってこその「社会」なのではないでしょうか?
Commented at 2007-09-12 03:35
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