観察の観察(区別という観察形式)

  システム論=区別という観察形式から論じたいと思います。

 「構造構成主義的に言えば、これらの対立の背後には、主観側(恣意性)と客観側(交換可能性)とを切り離しうる(二元論的思考)と、主観側と客観側とを切り離しえない(一元論的思考)という二つの概念が、無意識の内に構成されているのでは?と思います。」
kisugi_jinenさんの観察視点

  客観と主観は連続しているという一元論・・・連続性尺度
  客観と主観は断絶しているという二元論・・・非連続性尺度(完全二分法)

つまり、(連続性/非連続性)というメタ区別による観察を行っています。

 ニセ科学批判者が神の視点として観察されてしまう人たちは、(連続性/非連続性)というメタコードのうち、非連続性をマークして観察していることになります。個々人の主観を離れた客観的な真理の立場にたっていると見えてしまうわけです。物理的リアリティとして科学を観察する立場になります。
  一方、(連続性/非連続性)というメタコードのうち、連続性をマークして観察する人々は、ニセ科学批判者が絶対的な視点に立っていとる観察しません。主観の恣意性とつながっていると考えるわけです。程度の差になります。菊池さんにしろ、天羽さんにしろ、ニセ科批判者の考えも主観的な恣意性の延長にあると観察されます。主観も客観も程度の差です。その認識(科学と呼ばれるもの)がたまたま社会の多くの人々に認可されている(イデオロギー)ことで、客観性を担保しています。社会的リアリティとして科学を観察する立場になります。

 ここで重要な点は、ニセ科学批判者も、それを批判する者も、(連続性/非連続性)という自らが準拠している区別に盲目なわけです。kisugi_jinenさんという全くの他者による視点によって、その区別は明らかにされます。相対的な他者の視点は、第二次観察と呼ばれます。もちろん、その観察も別の観察によって観察されます。その意味で、究極のメタ(神)はありません。言い換えれば、メタは相対的な概念です。

 システム論からすると、あらゆる観察は区別に基づいています。区別は、個々人の関心や恣意性から切りはなれさて自由に他者にコミュニケートされていくと捉えます。さらに、区別は他の区別によってしか観察されません。メタ区別も別の区別からさらに観察され、コミュニケートされます。

 区別によって一切は生じると考え、区別を遡ることに対して判断中止します。このように方法論的に、区別を始原におくことで、万人があらゆる区別を採用・共有・選択し、事物を観察できるという面において、視点の無限の交換可能性を志向しています。(個々の区別の無限の選択的使用可能性)

 
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by merca | 2007-09-13 19:16 | 理論 | Trackback(2) | Comments(0)
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Tracked from 来生自然の。。。 at 2007-09-14 03:15
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