ニセ科学議論のメタ整理

 自らがどのような観測点に準拠して事物を観察しているのか、自らにとってはわからない。これを第一次観察の盲目性という。自らの観測点は、他者の観察によってはじめて明らかになる。他者のこの観察を第二次観察という。無論、他者も自らの観測点に対して盲目である。観測点は、二元コードによってあらわされる。この二元コードをメタコードということもある。しかし、絶対的で究極的なメタコード=神の視点は存在しない。無限のメタの連鎖があるだけである。そのようにコミュニケーションは連接していく。

 私の疑似科学批判に対する観察に対して、批判的に観察した他者(菊池さんや天羽さん等)もいたが、それは私の観察に対するメタ観察となる。さらに、その観察の観察もしてきた。

 最初の区別
 科学者は疑似科学(ニセ科学)を次のようなコードに準拠して批判的観察をする。
(科学/非科学)ないしは(本物/偽物)である。前者は疑似科学に対応し、後者はニセ科学に対応する。疑似科学(ニセ科学)は自らが(科学/非科学)ないしは(本物/偽物)というコードに準拠していることに盲目である。科学者に指摘されてはじめて明らかになる。

・イデオロギー論からの観察(ニセ科学批判の社会学的相対化)
 科学者による疑似科学(ニセ科学)批判は、科学のイデオロギー機能を前提としている。成熟社会では、科学は人々にとって信仰として機能している。この社会では、科学は信じるに値する最善の知識であるということである。このような社会的背景あるいは社会的意味地平に準拠して、批判行為はなされていると観察した。わざわざ疑似科学(ニセ科学)を批判するのは、科学の内実を知らない大衆が科学というだけで疑似科学(ニセ科学)を受容するからである。疑似科学(ニセ科学)批判を社会的行為として観察したわけである。

・科学哲学からの観察(ニセ科学批判の理論的正当化)
 イデオロギー論から観察もできるが、別の視点からも観察できる。もしイデオロギー論からのみの観察だけが絶対化されると、科学とニセ科学はともに相対化され、単なるラべリング相互作用に還元され、決着のつかない目くそ鼻くそを笑うになってしまう。 
 そこで、科学者は、レッテル付与の科学哲学的根拠を示す必要がある。私が科学の公準をニセ科学批判者に聞こうとしたのは、そのためである。科学の何たるかを示さずして、科学者の言説というだけで、ニセ科学批判を受容することは、ニセ科学を受容する大衆と何らかわらず、私自身、科学信仰に犯されていることになるからである。
 ニセ科学批判をする者は、自らの科学観(科学の基準)を相手に示す義務がある。さらに、歴史的に見て、その科学観が概ね科学者集団で共有されている必要がある。

・倫理学からの観察(ニセ科学批判の倫理学的正当化)
 ニセ科学が人々を騙すことは社会倫理に反する。ニセ科学が人々に実害を与えていることも社会倫理に反する。このような観点からニセ科学批判が正当かどうか判断する議論もなされている。つまり、(善/悪)というコードから観察されている。あるいは、他者危害法則、つまり功利主義の道徳観からは、(善/悪)を(公益/私益)で区別しなおした観点から論じられている。現在は、こちらの観点の議論が盛り上がっているように思える。しかし、善悪の基準は人や社会によって相対的であり、議論が収斂するかどうかは疑問である。結局、何をもって善とし悪とするかという哲学的論争になる可能性もある。
  
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by merca | 2007-09-15 09:17 | 理論
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