理系の弱点

  かなり冷静な視点でニセ科学批判問題を論じているブログを発見した。菊地さんや天羽さんもコメントを寄せている。

 katsuya_440さんのブログ

http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/51960784.html#52008223

http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/51855055.html

 上記ブログを読んでいると、理系の弱味や引け目があるのではないかと思った。

 オウム事件のことである。理系の方がオウムに入信し、科学を殺人のために悪用し、事件を起こしていたのはよく知られることろである。この事件によって、宗教やスピリチュアルに対する免疫が理系の方は弱いのではないかという印象を世間に与えた。科学を信奉する者がなぜオカルトのために科学を利用するのか? 
 これは理系の者にとって大きな傷を残したと言えるのではないかと思ってしまった。菊地さんや天羽さんが一部のニセ科学の根底にオウム的なものを感じているというコメントも見受けられた。これは私とって、大きな発見であった。

 小林よしのりは、オウムに走る若者を懐疑精神を喪失した「純粋まっすぐ君」と揶揄したが、理系には研究室にこもるそのようなタイプの人が多いのだろうか?ちなみに、文系、特に社会学では徹底的に相対主義的思考を身に付けさせられる。従って、絶対的に正しいと言っている宗教(科学も含む)に簡単に騙されない。宗教社会学なども学ぶことになる。宗教も正しさの観点でなく、社会的な機能から分析対象となる。

 少し気にかかったことであるが、理系の方が、道徳の問題としてニセ科学を論じる際に、他者危害法則が無条件に善であるとか、被害者がいたら無条件に悪であるとか、世間の常識的な善悪の基準に立脚して論じすぎてないかと思う次第である。普遍的な善悪の基準が最初から人々に前提・共有されており、それを疑わず信じているような気がする。

 文系の相対主義的思考からすると、善悪の基準そのものが社会や人によって相対的で多様であるから、善悪でニセ科学を論じると、価値観の対立になってしまうと考えてしまうのである。「人に被害を与えてはいけない」という世間に概ね流布している通俗道徳を疑わないという点においても、やはり道徳に対して理系は免疫能力が弱いと思ってしまう。

 理系学生の科学を疑わない態度が、自己の内面化している道徳的価値観を疑わない心理をつくり、一度、一つの道徳観や精神的価値を身に付けると、科学を信奉するように、絶対化してしまう傾向にあると考えられる。懐疑精神や相対主義的思考を欠く科学信奉に認められる絶対主義がオウム現象を生み出した一要因とも言える。

 ちなみに、理系が科学の絶対化を疑わない理由は、科学が実験によって真理内容は固定化されておらず、常に変化更新されていくという相対主義的側面を隠れ蓑にしているからである。(同一構造は民主主義にも認められる)
 科学者は、「科学的方法・手続きによって実証された知識」=科学的知識はさしあたり正しいという相対的な知識であると主張する。しかし、「科学的知識」は更新されていくが、実際には一方で「科学的方法・手続」は絶対化されていく傾向にある。科学は自己の知識を相対的であると主張すればするほど、方法論において絶対化されてしまうとう自己矛盾を抱えている。

 ニセ科学を疑う前に、科学を疑うことも必要である。そういう意味において、科学を疑うとともに基礎付ける科学哲学の役割は大きい。

  理系諸君へ
 科学を自己が絶対化しているかどうかは次の方法でわかる。科学を否定したり相対化したりする言説を聞くと、むかつきや怒りの感情が沸けば絶対化している。つまり、自己概念を支える思想として自我に科学を取り込んでいるのである。科学を否定されたり相対化されたりすると、自己も否定されたと感じるわけである。(社会心理学的知見)
 
 
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by merca | 2007-09-16 10:02 | 社会分析 | Comments(18)
Commented by wetary at 2007-09-16 13:29 x
理系は科学という絶対的なイデオロギーを信仰しているとも言えますね。これはたいへん皮肉なことですが、ニセ科学批判が先鋭化するにつれ、彼ら自体がニセ科学そのものにきわめて類似の精神構造に陥っていったのかもしれません。彼らは外部に向けて常に敵となる標的を探して糾弾することが自己目的化してしまっているのです。まさにオウムも外部に敵を作り内部の結束を固めていきました。

そして、不幸なことに、「水伝」以降、目ぼしい獲物が見つからずに徘徊していたところに、ちょうどニセ科学批判批判を行っているブログを見つけたわけです。それから、本来の目的であるニセ科学批判そっちのけで、ニセ科学批判批判の批判という枝葉の問題をことさらマッチポンプのごとく一大事に仕立て上げて騒ぎ立てているのです。

そのおかしさは外部のものならば少なからず感じていることですが、内部のものはその違和感さえ全く感じていないようです。そこに批判自体が自己目的している哀れなニセ科学批判の末路の姿がそこにあるわけです。
Commented by merca at 2007-09-16 21:29
 つまり、哲学的次元のみならず、現実においても、科学は非科学との区別でしか自己を証明できないという脆弱性を露呈しているわけですね。科学が科学足りうるためには、ニセ科学との差異が必要なのです。
 科学の中に本物と偽者という区別を再参入することで、擬似科学を作り出し、自己との境界線を引こうとします。ニセ科学批判は、システム論的には、科学の自己差異化運動です。
Commented by とおりすがり at 2008-03-19 16:34 x
机上の討論ほど無意味なものはない。
そもそも評論家ほどいいかげんな商売はない。
Commented by とおりすがり at 2008-03-19 16:36 x
経験すること。それが人生。
ゲーム世代のバーチャル考課。それが社会学。現実をみるだけでなく経験せよ。
Commented by 理系院生① at 2008-12-05 17:06 x
古い記事ですが、関心を惹かれたのでコメントします。
科学とは哲学より派生した真実を追い求める手法の中で、客観的かつ検証可能な方法論を採用しましょうというものです。真に理系の人間というのは幾多の志向の末、科学的に扱ってよい問題か否かをまず考えます。しかも自己批判的な哲学者で、信奉という言葉が当てはまるような綺麗な性格の持ち主ではないことが多いのです。「科学を信奉する」人間は科学を極めようとする人間ではなく、科学という宗教を信じている人間なので、これを分けて論ずる必要がありますね。あるいみオカルトにはまるのは信奉タイプの人間にとっては普通だと思います。
多くは書きませんが、科学者と技術者は理系というひとくくりにされますが、違うものです。何故か理系に対する批判には必ず「科学者」という言葉が使われ、技術者という言葉が多用されないのが大きな疑問です(大抵の理系と言われる人間は技術者になりますので)
特に「科学者の主張」って誰の主張なのか前々から疑問に思うことなのです。そしてそれは科学者を自負する人たちに今でも支持されているのかな?と。僕は内心、理系に在籍しただけの人間か文系の主張のような気がしています。
Commented by 理系院生② at 2008-12-05 17:07 x
それと理系のカテゴリーはもう少しでも良いので分けた方が良いと思いますよ?
>懐疑精神を喪失した「純粋まっすぐ君」と揶揄したが、理系には研究室にこもるそのようなタイプの人が多いのだろうか?

疑問を持つことは大切です。しかしこの後の話が全てこの条件を前提にしているところがもったいないです。「~気がする」で結局は実際に調べていないのも思い込みのレベルに留まってしまうので残念です。
理系は研究室にこもると思うでしょ?そんな大変でつまらないこと普通しないですよ。社会との接点が少ない・・・と話を持って行きたがる人多いんですよね。
理系そのものの問題以外に社会的接点を持つことが苦手な人間は就職に有利な理系大学に入るので、もともと社会的不適応な人間が救済を求めた結果が表れているということが大きいです。
Commented by 理系③ at 2008-12-05 17:12 x
理系って皆同じような主義、知的レベルだと思います?文系ですら相対主義的思考を知らない、反する人間いっぱいいるでしょ?

理系(文系)人間と理系(文系)学部に在籍する人間の違いは大きいですよ。「科学技術とは?」との問いに「人の役に立つことです」なんていう理系に在籍する人間が存在したという驚くべき経験をしたことがありますが、そういった人間は貴方の言う善悪の判断をする人間なのかもしれません。
こうした連中には貴方の言葉を聞かせてやりたいものですが、問題を突き詰めてゆきたいのなら、というか問題として扱いたいのならば、もっと理系の人間を本気で知る努力が必要だと思います。
Commented by 理系院生④ at 2008-12-05 17:14 x
オウムの例え話ですが・・・年収200万以下(破壊的カルトを自己内で否定できない知的・精神条件の代わりとでも思ってください)の理系は「やり方が分かってるドラッグの改良報酬として400万報酬を出す」という広告が出されたら飛びつく人はそこそこいるかもしれませんよね?でも1000万プレイヤーの理系はそんなことしないと思いません?(完璧に置き換え可能な条件でないことはお赦しを)
知的・精神的に貧困な理系層で理系をひとくくりにすると理系の問題として扱うことが不適切だと思いませんか?(理系のタイプとしてその層に焦点を当てるということは意味はあるかもしれません)

Commented by 理系院生⑤ at 2008-12-05 17:26 x
ちなみに理系 精神論でググって流れてきました。僕はこういう問題には関心があるのですが、もっと洗練されて欲しいと考えています。それは文系よりもむしろ貴方が理系と呼んでいる人間に科学の意味をもっと考えて欲しいからです。僕も言いましたが、こういう問題のとき理系の人間って相手に「もっと考えろ」と言うんですけども、じゃあ「我々はその問題をどうするの?参加しないの?外様の世界で済ませる気なの?」って思うんです。
Commented by 理系院生⑥ at 2008-12-05 17:31 x
そういうわけで、とても迷惑極まりない書き込みとは自覚しているのですが、ブログというものの価値を考えたとき、この問題に出会ってしまったとき僕に出来ることと言ったら普段考えていることを書くのが良いのかなと思ったのです。
でも僕は何処に行っても(大学でも)変わってると言われているので、もしかしたら自分が自負しているほど理系ではないと言う可能性も否定はできないかもしれません。ちなみにこういった粘着性の長文レスも「理系と呼ばれている人間」に全て当てはまるかといったらそうではないのです。
Commented by 理系院生⑦ at 2008-12-05 17:58 x
あ、ちなみに科学的な知識を多く有していたとして、科学はあくまで問題解決の手法の一つとしてしか見なさない価値観を持つ人も多く存在します。車とか法律とか料理の炒め方とかのようにです。
そういう人たちは科学の意義も考えなければ、信奉もしていないので金儲けや人助け、オカルトの中で生きていくことが第一目的であったとしてもおかしくないです。軽自動車に乗っている人間が軽自動車マニアか否かって考えればいいんじゃないでしょうか
Commented by merca at 2008-12-06 21:11
論宅です。
(理系/文系)という区別コードで、学問を分類する場合、その根拠は、対象によるのか方法によるのか、この点を掘り下げることがポイントになります。例えば、道徳(善悪)という目に見えない対象については、文系である倫理学が扱います。このような対象については、自然科学的な方法を適用できません。道徳の根拠を人倫社会のうちに求めるのではなく、物理的宇宙=自然に求めようとする態度は、間違としてよく指摘されます。科学によっては、道徳や社会の問題を解決することはできません。科学主義者もオカルト信奉者も、この点を分別していないところに根本問題があります。
Commented by merca at 2008-12-06 21:31
ちなみに少し社会構築主義の立場から観察すると、(理系/文系)という区別は、実際の対象=個人に最初から内在する属性ではなく、社会から付与される役割にしかすぎません。人々がそのように見なすことで、それを意識し、役割アイデンティティとして自我に取り込み、そのように演じることで、その物語がつくられ、社会的事実となります。意見内容とは関係なく、理系院生さんがこのエントリーに興味を持ち、理系として語ることができること自体がすでに理系という区別を意識し、自我意識に取り込んでいることになります。理系だから科学的あるいは実証的に思考しなければいけいなという役割規範があり、それを内面化することで、本当にそのようになっていくわけです。(理系/文系)という議論がコミュニケートされれば、されるほど、その区別は伝わり、社会的に本当になってしまうおそれがあります。
Commented by 理系院生 at 2008-12-08 01:55 x
お返事ありがとうございます。
>科学によっては、道徳や社会の問題を解決することはできません。
そりゃそうだと思いますよ。ニヒリズムとかに僕なんかは陥りそうですけど。ところで社会学者は科学者と科学主義者を分けていないのでしょうか?
何だか研究対象と研究する人をごっちゃにしていますね。というか科学者という人は科学をどんなものに適用すべきか知っていますということは既に書いたはずですが?彼らが道徳問題の補助として科学を利用することはあっても科学で解決できると考えているとはとても思いません。
もしかするとそのような人を「科学者であり社会学者であり~である」なんて言うべきだということなのかもしれませんが。

>道徳の根拠を人倫社会のうちに求めるのではなく、物理的宇宙=自然に求めようとする態度は

もう一度聞きますが誰が求めて、理系を自負する人のどれくらいがそのような考えなのでしょう?
Commented by 理系院生 at 2008-12-08 01:56 x
>ちなみに少し社会構築主義の立場から観察すると、(理系/文系)という区別は、実際の対象=個人に最初から内在する属性ではなく

それも仰るとおりで、自覚しています。しかしながら
「理系だから科学的あるいは実証的に思考しなければいけいなという役割規範があり」という指摘については論拠が無く乱暴な決め付けです。論拠が無い。
私は確かに科学的・実証的手法を好み扱います。しかし何よりもその前に実証可能か、科学を適用するべきかを考えます。これは私に限らないと思います。実証不可能であれば他の方法をとるまでです。

頂いたお返事でさえ殆どの事柄が絶対的な決め付けに基づいており、とても相対的主義をお持ちの方の意見とは思えず驚いております。
社会学というものが多様な要因を含む事柄を一つの特殊要因に象徴される事柄で単純化する手法なのか、それが貴方特有の方法論なのかは分かりません。
ただ、貴方が社会学を知っている(理解している)というよりは社会学に何があるかを知っているだけのような気がしてならないのです。
それは別にかまわないと思います。多分貴方も学生さんだと思いますし、私も科学者、技術者としては全然未熟で学習中ですから
Commented by merca at 2008-12-09 01:24
論宅です。少し参考になるブログを拾って見ました。グーグルで検索すると、文系と理系 の検索結果 約 727,000 件となります。これだけ多くの人たちが理系と文系にこだわっていることがうかがえます。下のようなサンプルになるブログが無数にあり、事例にことかきません。
http://iwatam-server.sakura.ne.jp/column/64/
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/eturan10.html
http://oshiete.dakko.jp/qa2435981.html
 ネット上には、理系と文系のイメージに関する言説が溢れかえっています。
 視点は、かわりますが、一つ言えることは、(文系/理系)という区別が大学選択、職業選択の重要な選別基準になっていることです。社会学的には、職業社会への人員分配における選別機能を担っています。受験生も大学生も自分は理系か文系かにこだわっています。社会学的には、(文系/理系)という区別が若者にとって、大きな意味を持つのは、そのような理由からだと解釈できますね。
Commented by merca at 2008-12-09 01:25
「理系だから科学的あるいは実証的に思考しなければいけいなという役割規範があり」という指摘については論拠が無く乱暴な決め付けです。論拠が無い。」

 理系の方が学ぶ知識は、そもそも実験から積み重ねられた実証的な知識だと思うのですが、そうでない理系の科学的知識もあるのでしょうか?そのような実証的な知識を学ぶ以上、理系の方が実証性を軽視するとはあまり考えられません。理系の方が実証性を重んじる、つまりそれを役割規範として内面化するというのはあたりまえの論理的帰結だと思います。そうでないと、自己否定につながります。
 さらに、科学的に思考すること、つまり実験や実証を重んじることはなしに書かれた論文を認める理系の教授はいるのでしょうか? おそらくそのような論文を書いたら、認められないと思いますが。実証性がないと却下されるのではと思います。そのような否定的な反応を受けること自体が、科学的であること、実証的であることが理系の科学者集団で規範化されている証拠となります。実証性のない非科学的な論文を書いて試してみられたらと思います。
Commented by 理系院生 at 2008-12-09 04:36 x
結局あなた自身の仰ったことも僕の言ったことも忘れちゃったんですね。
それとも理解できないのでしょうか?
必ずどこか曲解して相手の言い分をまるで異なる内容にして返答しますし、都合の悪いことは一切答えないですね。
それがあなたの議論の手法だとは失望しました。このブログに対する評判を検索してみても貴方が良い議論をしよういう意思が無いことが分かります。
悪いとはいいません、ブログでは必ず有意義な議論をする必要はありませんし、自己表現の場でもあります。
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