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(共有/共演)

 仏教では、「 因縁によって一切は生ずる」という。
 科学では、水を火で熱すると気体化して蒸発するという自然現象が認められているが、実際には生じた時にしか、そのような自然現象は実在しない。生ずる前には、存在しているとも存在していないとも言えない。このような状態を空という。現象は、生じてはじめて実在するが、いずれは滅する。しかし、立ち現れたことには間違いはないので、現象化している状態を仮という。空=潜在態と仮=現象態の弁証法でもって、世界は観察される。(空/仮)という区別は、哲学上においては(可能態/現実態)に対応する。

 さて、社会学においても、この区別は重要である。人々が共通の観念や価値や規範をもっていたとしても、人々がそれを選択・使用して実演しなければ、社会は生じない。共同主観イコール社会ではない。
 つまり、(共有/共演)の区別である。例えば、お金を支払うことで欲しい物が手に入るという社会規則を知っていても、強盗は暴力で品物を手に入れようとする。強盗も貨幣が交換価値があることは知っているが、それを使用せず、欲しい商品を暴力で手に入れようとする。しかし、別の場面では、その強盗もお金で商品を買う場合もある。また、英語を学んだ日本人も、アメリカ人に対しては英語という言語ルールを使用するが、日本人には日本語という言語ルールを使用する。このように、人は自己が所有している観念・規範・価値を恣意的に使い分け、選択して行為する。

 社会は、人々の共同主観(共有する観念・価値・規範)から発生するのではなく、自由意思(偶然性)間の理解(解釈)・選択・共演(遂行)から創発されるのである。
 (共有/共演)の区別でいうと、社会を論じる際に、共有のみが強調されてきた。そうなると、人間は機械のように記述されてしまう。所謂、規範主義パラダイムに基づく社会学である。しかし、ゴフマン社会学やルーマン社会学では、共有ではなく、共演に重点が置かれている。 
  
by merca | 2007-09-24 20:58 | 理論
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