物象化現象の記述

 自然科学は、対象と認識の一致という真理観に基づき、対象を分析することで、真理を獲得する。多数決の原理からは、自然科学の真理は導き出されない。このことについては、物理的リアリティと呼んでおいた。

 一方、貨幣、カリスマ、いじめなどの社会学が扱う対象に対しては、対象と認識の一致という真理観からは記述不可能である。というのは、対象をいくら分析したところで、対象の属性は見つからないからである。
 「貨幣には価値がある。」と言っても、貨幣そのものには微々たる使用価値(チリ紙程として使える程度)しか見当たらない。貨幣そのものに、価値が属性として宿っているのではなく、物品と交換できると信じている人々の主観の中に価値が生ずる根拠があるのである。直接的に貨幣という対象をいくら分析しても、価値は見い出すことはできない。紙幣に宿る価値は、人々によってつくられたものである。対象の属性を写しとるのことで正しい認識が生ずるという真理観=物理的リアリティでは、貨幣現象は記述できない。貨幣現象を分析するためには、人々の主観や交換行為を観察し記述することになる。
 カリスマについても、カリスマとなった人物を対象にいくら分析しても無駄である。カリスマは人々によってつくられたものであるからである。人々がカリスマと呼ぶからカリスマになるのである。
 いじめついても、いじめられっ子やいじめっ子の性格をいくら分析しても、いじめられる性格やいじめる性格を発見することはできないであろう。子供達の集団内コミュニケーションにおいて、いじめられっ子はレッテルを貼られ、つくられるものであるからである。いじめを記述するには、当事者の個々の性格や心理ではく、コミュニケーション過程を分析することになる。

 上記の例のように、あたかも、ある特定の対象にある属性があるかのように擬制されることを物象化という。「貨幣には価値がある」「ある人物にはカリスマ性がある」「いじめの原因は、いじめられっ子の性格にある。」ように見えるのは、全て物象化の仕業である。社会内存在である当事者たち=人々は、本当に貨幣には価値があり、本当にいじめられっ子には性格的原因があり、本当にカリスマには魅力があると思い込んでしまうのである。社会学的には、科学も例外ではなく、「科学は真理である」ように見えるのも、一種の物象化現象である。科学には些かの真理も宿っておらず、科学を真理だと思う人々の共有された主観(科学的手続き=科学の公準)の中に真理(社会的リアリティ)の社会学的根拠があるのである。本来、科学それ自体の中に真理があるのではなく、科学の対象たる自然の中に真理はあるのである。とにかく、このように、人々は、ある属性を対象の属性と勘違いするのである。自分達のコミュニケーション過程で生じた錯覚であるに気づかないのである。物理的リアリティの相で眺めてしまう。しかし、現実には、いくら対象を分析しても、対象の中に当の属性を見い出すことはできないのである。
 社会学は対象の内実を分析するのではなく、そのような属性を付与する人々のラべリング過程を観察し、記述するのである。犯罪、非行、貧困、ジェンダー、差別、社会階層、格差なども、実はその対象を分析しても、記述不可能である。つまり、対象と認識の一致という真理観からは観察不可能である。もし仮にそのように認識したとしても、それ自体が物象化現象である。例えば、「貧困が犯罪をつくる」という認識は、物象化的錯倒である。貧困にはいかなる犯罪性も宿っていないのである。
 ちなみに、科学的知識が真理であるという信仰は、科学的知識の内実に根拠がある場合(物理的リアリティ)と、人々がそう信じているという場合(社会的リアリティ)の二つの次元があり、これは分けて考える必要がある。
 
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by merca | 2007-09-27 23:34 | 社会分析 | Comments(0)
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