認識とレッテルの相違

 まずは、認識とラベリングの相違について述べたい。

 認識作用とは、基本的には物理的リアリティのことである。つまり、認識主観に認識内容の原因があるのではなく、対象に一方的に認識内容の原因があるのである。認識主観にとっては、認識内容は非恣意的であり、必然性の相でもってたち現れる。端的にいえば、対象と認識内容の一致という模写説である。認識内容は対象に宿っている属性を写し取ったことになる。

 一方、ラベリングは、認識主観に一方的に原因のある観察である。つまり、対象の中にはレッテルが指し示す属性が宿っていないということである。主観が対象に意味を投射したものである。主観の期待や物語を対象に押し付けたものであり、意味付与行為なのである。
 ただし、ラベリングにも、規則があるラベリングと規則がないラベリングがある。規則があるラベリングとは、ある一定の属性をもつ対象にラベリングするというものである。例えば、具体的なある女性=対象に対して、「か弱い」というレッテルを貼ったとする。物理的リアリティの相からは、その対象は確かに生物学的性として女性の性質を宿している。しかし、次にそのような属性をもつ対象に「か弱い」というレッテルを付与する。生物学的女性という物理的リアリティを標識として、個々の対象にラベリングがなされる。また、裁判官も、物証によって立証された事実行為をもとに、法律という基準を適用し、行為者に対して、レッテルを付与し、犯罪者をつくる。規則のあるレッテルは、第一次観察が物理的リアリティ=事実に準拠するので、公平性はあるが、第二次観察は完全に一方的で恣意的な意味付与行為なのである。第一次観察の非恣意性が第二次観察の恣意性を隠蔽することがよくあり、これが隠蔽されると完全な物象化となる。システム論的にいうと、ラベリングの二重構造(観察の観察)に注意したい。規則のあるラベリングにおいては、第一次観察は(認識する/認識しない)という物理的リアリティに準拠し、第二次観察は(意味付与する/意味付与しない)という社会的リアリティに準拠しているのである。
  参考 
 ちなみに、ニセ科学批判は、規則のあるラベリングの一種である。規則とは、科学の公準である。この公準に外れている科学と称する学説に対してニセ科学のレッテルを貼ることになる。
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by merca | 2007-10-14 10:19 | 理論 | Comments(1)
Commented by merca at 2007-12-09 14:49
どう思うかは対象に原因があるのではなく、意味付与する側の視点の恣意性にあるわけで、ただし、それがどれだけ他人に共有されたり、他の視点から観察可能かで、一つの言説のコミュニケーションの連接可能性がかわってくる。最初は客観的ではなくても、その視点が流布し、人々がそれを演じると本当になる。どのような区別に基づいて他者が観察しているか観察することのほうが有意味である。
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