メタという観察形態

 メタについては、二つの考え方がある。
 一つは、述語論理学的な意味でのメタである。例えば、「雀は鳥類である。」「鳥類は脊椎動物である。」「脊椎動物は生命体である。」と言った場合,鳥類は雀よりもメタ、脊椎動物は鳥類よりもメタ、生命体は脊椎動物よりもメタとなる。指示空間のそのまた指示空間をさかのぼることになる。最終的に万物を含む究極のメタが神となる。いわゆる神の視点と呼ばれるものである。このように述語論理学的なメタには階梯がある。

 上記のメタの考え方は、かなりベタである。ルーマン系のシステム論社会学の考え方は、上記のようなベタなメタ論議を不毛だとみなすことろからはじまる。否定神学にいきつくのが関の山である。
 端的に言うと、システム論社会学では、(形式あるいは機能/内容)の区別としてメタを捉える。例えば、宗教は人間に生きる意味を付与するという機能があると観察した場合、個々の宗教の具体的内容は問われない。宗教社会学は個々の宗教の教義内容ではなく、それが社会にとってどのような機能をもつかに焦点を当てる。従って、同一の機能を有する限り、仏教もキリスト教も等価だとみなす。科学も擬似科学(そのようなレッテルを貼られた知識体系)も、社会で同一の機能を有している場合、社会学的には等価となる。また、どんな宗教であれ、形式的には(聖/俗)の区別をもつ。個々の宗教に対して、その形式や機能がメタと呼ばれるものとなる。
個々の宗教からしたら、そのように括って観察されることは高見に立ったように感じられるかもしれないが、社会学者の観察も、別の学問や思想から観察され、その別の学問や思想がメタになる。さらに、その別の学問や思想もさらにまた別の学問や思想によって観察され、メタになる。決して神の視点のような絶対的な視点を想定しないのがミソであり、このようにメタの連鎖、つまり観察の観察によって人間の生産的な営みが豊饒化し、価値創造、文化創造をもたらすのである。

 このように、二つのメタの考え方があるが、この点を区別しないと、議論はかみ合わない。

  参考
 科学とニセ科学を機能的に等価だと見なす社会学的観察も一つの相対的な観察にしかすぎないにもかかわらず、ニセ科学批判者たちが社会学的観察に対して高見に立っているとのレッテルを貼る傾向にあるのは、ニセ科学批判者が述語論理学的な階梯的メタ義論に準拠しているからである。それに気づいているかどうかは知らない。
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by merca | 2007-12-09 15:26 | 理論
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