(勝ち/負け)、(敵/味方)


 色々と想像し、私の説や動機に自分たちの願望を投射しているようであるが、無駄なことである。私は、 議論の(勝ち/負け)や(敵/味方)というコードにはなんら準拠していないからである。もともと何が真実であるかについて無欲である故に、いたずらに他者の願望を呼びこむことが多い。私が興味があるのは、他者がどのような区別に準拠して発言しているか観察することだけである。
 いずれにせよ、そのような投射行為によって、逆に今騒いでいる論客の皆さんが準拠している欲望や区別を観察できることになるので、うれしいことである。ネット上には、もはや騒いでいる皆さんによってつくられた私の像しか存在しないのである。そもそも、一切の物に実体はない。全てはつくられたものである。私の説すらも区別することによって刹那に生じたものにしかすぎない。つくられたものに真も偽もなく、すでに寂滅している。

  むしろ暴かれたのは、私の周りで騒いでいる人たちの道徳感情とその強度である。本当に熱い感情が読み取れる。なぜかというと、自らの道徳的関心でもって他者を観察しているからである。真なる識者は、ほどよくそれ自体を観察していることであろう。

  追伸
 トラックバックの質問には一部答えようと考えたが、答える前に、内輪ですでに答えをだしているのである。答えは、これすべて、自己のうちにあるのである。
 私も含めてニセ科学批判批判をする人たちは、よく見れば孤立化しバラバラなような気がする。互いに連携することはなく、それぞれが自己に準拠して述べている場合が多い。私は、津村さんや室井さんとも、ほとんど連携したことがない。どんな人かあまり知らない。
 一方、ニセ科学批判の人たちは集団化する傾向にある。集団化するということは、一つの思想的潮流になる可能性もあり、特に悪いことではない。(ローマの寛容の実践、他説を取り入れるのもその実践の一つ)
  (敵/味方)というコードに準拠し、誰か敵がいることでまとまっている。おおよそ集団の境界線は外からしか観察できないので、自分たちが思想的に集団化していることに盲目であると思われる。
 
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by merca | 2008-01-17 18:51 | 理論
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