(生物/無生物)の境界

 久々に書評を書きたい。
 「生物と無生物の間」という新書を読んだ。福岡伸一という生物学者の著書である。
  読みやすく、面白く、本質的である。
 
 科学では、生命をどのように捉えるのか知りたかった。確かに、生命のある存在かそうでない存在かを、我々は感覚的に判断する能力をもっている。蛙や鶏が生き物であるというのは見たらすぐに分かる。一方、近代の知である科学は、どのように生命を定義するのか、その点に非常に興味を持った。ちなみに、我々が科学に頼らずに生命のある存在とそうでない存在を見分けることができるのは、本能によると考えられる。つまり、それは、生命は他の生命を食べることで維持できるという単純な真理に根付いている。生き物か生き物でないか区別することは、生き物が生き物として存在し続けていく条件であり、この区別なしには、生存できない。

 さて、同著では、生命体を「自己複製するシステム」「動的平衡」「時間」という三つの要素で定義している。
 「自己複製するシステム」とは、DNAのはたらきのことであり、ネガポジ関係にある二つの紐を分離させ、自己と同じ存在をつくりだすことである。その様は、細胞分裂や生殖に見て取れる。原子や分子には、そのような特徴はない。
 「動的均衡」とは、生命は物質を代謝しているにもかかわらず、特定の均衡状態を保っているということである。物質のエントロピーの増大(無秩序状態)を防ぎ、特定の状態を保ち続けるというはたらきである。確かに生命体は物質が流れる川のようであるが、その流れには一定の均衡状態があるということである。生物は自らを構成している原子や分子を絶えず入れ替え、物質的には刹那滅的に常に異なり続けている。つまり、生物は、刹那的には原子や分子に依存しながらも、それらに存在の根拠をもつわけでないことになる。三次元体である分子等に自己の境界を投射するが、単純な三次元的存在でない。
 「時間」とは、常に成長・変化していく存在=同一物だということであり、空間的・静的なシステムではないという点である。一つの部分=パーツがどのような役割を担っているかは、固定的ではなく、特定の時点で空間的に判断することはできない。機械は時間が経っても変化も成長もすることがないので、一つの部品の役割は固定的である。しかし、生物の場合は、一つの部位が欠損していても、成長過程で、それを補うようにはたらき、動的均衡を保つらしい。ある一つの生命の部位は、時間による成長・変化の中でしか、その役割は特定できない。(オートポイエーシス・システム論の機能的代替項目という考え方につながる。)

 さて、かように生命体は科学的に定義されるわけであるが、しかし、まだまだこれだけでは不十分であることには間違いない。ウィルスを生物に入れるか困難な問題も残っている。これからも科学が発達するにつれて、様々な区別の指標が見い出されるであろう。
 それにしても、科学を知らずとも、生物と無生物を区別できる人間の動物としての本能とやらは大したものである。科学ではなく、自然が与えた大いなる能力である。この自然が与えた本能は、科学に先んじて、科学(生物学)の対象である生物をあらかじめ対象として定立してやっているのである。ありがたいものである。科学だげが正しい知識を得る手段ではない証拠である。科学という単なる人間の理性よりも、自然が与えた本能のほうが偉大なのである。科学技術は人間の手先よりも器用な機械をつくるのに未だに成功していない。自然が我々に与えた能力は科学を越えている。

   追記
 本質的な定義かもしれないが、生物の定義として、(内因動力/外因動力)という区別も必要ではないかと思う。つまり、外因動力とは、他の存在の力よって動く存在であり、原子や分子のことである。内因動力とは、自身の力によって動く存在である。生きているというのは、動かされているのではなく、動いているという本質がともなう気がする。
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by merca | 2008-02-09 16:28 | 理論
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