科学は錯覚である?

 西條氏の構造構成主義の源流には、構造主義科学論がある。構造主義科学論は、池田清彦氏があみだした独自の科学哲学である。構造主義科学論の最大の特徴は、物理的リアリティに準拠していないということである。つまり、対象と認識の一致という真理観を排除した科学論である。普通、自然科学は観察対象に宿る性質を認識するという立場をとり、客観性は観察対象の同一性によって保証されると考える。
 しかし、構造主義科学論では、そのような真理の模写説を完全に否定する。構造主義科学論においては、対象にこれこれの性質や因果法則が宿るという素朴実在論的な科学観を退ける。構造主義科学論においては、科学の根拠を、観察対象に宿る普遍的な属性に求めるのではなく、認識主観が所有する物の見方の形式、つまり構造に帰着させる。人々が共通の認識構造で観察する時に、客観性が成立ち、科学も成立つとする。
 例えば、水が100度で気化するのは、水という物体に宿る属性ではなく、観察主体である人間の認識の形式=構造=言葉の同一性に根拠をもつことになる。認識主観を離れた不動の自然という観念は、存在しない。つまり、科学的客観性の根拠は、言葉の同一性にあるのであって、対象の同一性にはない。
 一般に、言葉が指し示す対象物が実存しなくても、コミュニケーションは成立つ。例えば、神は実在しないかもしれないが、神という言葉の使われ方=構造が同一ならば、神という言葉を使用してコミュニケーションは成立つ。これは経験的・歴史的事実である。
 構造主義科学論においては、神のみならず、水や月も太陽などの自然物も一切実在しないと考える。実在しなくても、言葉の使用の仕方が同一なら、コミュニケーションは成立つ。言葉の使用方法が同一であり、コミュニケーションが成立つことでもって客観的であり、よしとする。実在しないという点においては、科学でいうところの原子も分子も脳も、妖怪や幽霊や宇宙人などと同じなのである。
 ここで、ひるがえって考えると、実在するとはコミュニケーションされるということになる。つまり、コミュニケーションで機能する言葉のみが意味を持ち、実在するように見える。その反対ではない。実在するとは、コミュニケーションされることであるというルーマンのシステム論と通じるところがある。妖怪や幽霊や宇宙人などもコミュニケートされ、社会的に機能すれば、実在することになるのである。コミュケニケーションに立ち現れない限り、何物も実在しない。コミュニケーションを離れて、原子も分子も存在しない。
 自然科学者は、素朴実在論的な錯覚でもって、因果法則が観察対象に宿る属性であると妄想するのである。これは、水伝と同じである。構造主義科学論からすれば、ニセ科学として批判されている水伝もコミュニケートされれば、人々の間で実在してしまうのである。今後、構造主義科学論が、ニセ科学批判にどのように関わるのか知りたいところである。池田清彦氏の有名な科学教批判では、素朴実在論=物理的リアリティに準拠した自然科学を錯覚として退けている。科学は錯覚なのだろうか?錯覚ならば、そもそも科学に偽物も本物もなく、ニセ科学批判も無意味になってしまうのである。
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by merca | 2008-02-17 23:31 | 理論 | Comments(0)
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