価値次元相対主義の宣揚

  私は、今のところ、相対主義的視点をとるものであるが、厳密に言うと、価値次元相対主義である。このことはあまり議論されてきていないので、ここで述べておきたい。

 普通にいう相対主義とは、文化相対主義と個人相対主義である。つまり、異なる社会によって善悪や真理の基準が異なり、人類に共通の絶対的善や絶対的真理はないというのが、文化相対主義の立場である。例えば、この立場からは、未開人の残酷的な奇習も野蛮な人権侵害として否定してならないという結論になる。また、真理として科学も呪術も同等であると見なすことになる。個人相対主義とは、人それぞれ個性があり、違うのでものの見方や価値観が異なるのは当たり前であり、人類に共通の絶対的善や絶対的真理はないという思想である。この立場からは、原理的に人に自己の考えや価値観を強制してはならないことになる。例えば、殺人を肯定する思想も、個人の自由であり、否定してはならないことになる。

 文化相対主義や個人相対主義も、ニヒリズムをもたらすとして危惧されてきた。正しいものは何もないので、何をしても同じであり、何でもありであるという思考に陥るわけである。知的な若者が陥りがちな無意味感覚=生きる意味の喪失であり、この立場からやみくもに科学主義や人権思想を批判する未熟な論客がいる。これは、「意味という病」と呼ばれ、社会に参加する動機付けを喪失する社会病理現象である。
 いうまでもなく、この問題に真っ向から取り組んだ社会学者は宮台真司である。(意味/強度)という区別で観察し、この問題に対処しようとした。しかし、このような若者のニヒリズムの問題は、もう過去のものになったのかもしれない。時代の変化とともに、「今のところ、科学だけが人間が到達しうる妥当な知識である」「今のところ、民主主義だけが人間が到達しうる妥当な統治手段である。」という意識がはびこっており、若者のニヒリズム問題は消滅しつつある。あるいは、もともと中流以上の社会階層に属するインテリの若者に限られた特有の現象にしかすぎなかったのかもしれない。
 なお、相対主義とニヒリズムによる「意味という病」においては、相対主義が絶対主義のメタコードと同一であると気づいていないところに彼等の論理的間違いがあるが、ここでは立ち入らない。
      参考エントリー
 絶対主義と相対主義は同根

  さて、本題に入りたい。価値次元は、社会的領域の分だけ種類がある。学問的領域(科学)、政治的領域、経済的領域、教育的領域、宗教的領域、道徳的領域、芸術的領域などである。それぞれの領域が独自のメタコードによって観察され、他に還元されない自律的価値をもっている。それぞれの価値次元は、序列関係がなく、対等である。例えば、学問的領域のほうが宗教的領域よりも勝っているわけでない。それぞれが相対しており、一つの価値次元だけが絶対化されることがない。
 このように、各価値次元には優劣がなく対等であり、他に還元されず、互いに閉じているというのが、価値次元相対主義である。価値次元相対主義は、文化相対主義や個人相対主義とは本質的に異なる新種の相対主義である。私のこの考えは、ルーマン社会学の機能分化の着想に基づいている。
 価値次元相対主義の逆は、価値次元絶対主義である。つまり、それぞれの価値次元を超越した上位の価値基準で序列付けする立場である。その典型が科学主義である。科学的領域に特権を与え、科学を他の価値次元に対する監視装置とする立場である。
 あらゆる説に対して,(価値次元相対主義/価値次元絶対主義)の区別でもって、観察していきたい。

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by merca | 2008-03-02 13:40 | 理論
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