鬱病の苦悩

 鬱病で悩む人は多い。特に、鬱で悩む若者達は、鬱系やクスリ系やメンヘル系と呼ばれたりする。鬱は時代の病でもある。
 さて、鬱になると、自己否定的になり、自己の存在価値を問だし、人生の意味や生きる意味について悩みだす人が多い。つまり、何のために生きているのか哲学的・実存的に問い出す傾向にある。鬱になると、これまでの人生を振返り、実存的問いを考え出すのはなぜだろうか? そもそも、生きる意味に解答を見い出すことで、鬱は治るのか? 生きる意味を支える物語で、鬱は治るのか?そんな疑問が湧いてくる。
 
 鬱で苦悩している人は、気分障害であり、その感情に苦しめられている。例えば、鬱の人から「私は死にたい。もう私が生きている値打は無い。生きる意味がわからない」と言われたら、二通りの対応が考えられる。その言葉の意味通り、生きる意味について人生相談にのる。もう一つは、お医者さんに薬をもらいなさいという。前者が物語論的治療であり、後者が科学的治療である。科学的治療について言うと、脳内の物理的現象から気分障害が生起しているわけであり、投薬が気分障害を緩和させるという物質的な必然の因果律が、本人の内面的な精神世界の意味秩序と関係なく、独立に存在するのである。なお、カウンセリングや認知行動療法は、基本的には人生相談と同じ次元であり、鬱病患者の意味世界や認知構造にはたらきかけ、気分障害を緩和しようとする。
 鬱病の人の精神的苦悩は、科学で治癒するのか、物語で治癒するのか、どちらであろうか? 科学は本人の外部にある因果律であるが、物語は本人の内部にある意味世界である。そもそも鬱病の人たちは、生きる意味が喪失してストレスがたまって鬱になったと思っているのか、脳内現象として鬱になったから生きる意味を喪失したと考えているのか、微妙なところである。

    参考
 ターミナルケアの分野で、医師の日野先生が代表で日本スピリチュアルケア学会なるものが出来たらしい。意味世界あるいは精神世界を操作できる達人たち=宗教家の力が、医学という科学にも必要とされつつある。
 意味世界は科学物理システムには還元されないことを見抜いたシステム論者・ルーマンは、正しく卓見である。意味世界の現象である社会・意識は、意味システムと呼ばれる。意味システムは、物質世界から閉じられている。この閉鎖性が科学と宗教の区別を境界づける根拠である。

 

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by merca | 2008-03-09 09:44 | 理論 | Comments(13)
Commented by at 2008-04-26 14:23 x
論宅さんどうも。まず、人間の抱く「怖れや苦しみ」というのは、本質的には生物学的リスクを回避し様とする強い防衛本能の表れであるということを鑑みてみると、「大いなる怖れや苦しみ」の前には「小さな怖れ苦しみ」は消え失せて仕舞うという法則が得られます。

なぜというに、我々は我々の現存在を脅かす何かより怖れるべき脅威と対峙した時に、我々の生存本能はただちに固体や群れ全体の生存確保を最高の関心事とした行為の中心へと我々を向けさせるからです。当然この時脅威に対する警笛として発せられた恐怖心や苦痛はただちにその最高目的の為だけに我々の総ての認識・反省・意思を投じさます。(一体その最高目的以外の事柄に注意をとられることは、それだけ自己を危機的状況から遠ざけ様とする努力を減退させ、死に至るリスクを強めて仕舞います)従って、我々は他の縁の薄い色々な事柄にはまるで認識力が回らず、それらに対しては徹底した無反省と無感動を装うまでに至るのです。かくして我々はより大きな怖れ苦しみだけが唯一の関心事となり、他の小さな怖れ苦しみに対する関心がまるで消え失せて仕舞うのを感じるに至るのです。

Commented by at 2008-04-26 14:23 x
(つづき)
例えば、目の前に茨の道があると仮定します、当然そこを通るのはリスクが伴いますから、人間はそこを通る事に対しては怖れや苦しみを伴います。でも後ろに熊なんかが迫っているとここで仮定し、さらに逃げる場所はその茨の道しかないとするならば、僕なら間違いなく茨の道を突っ切ります。熊に攻撃されるリスクよりも茨の道を通る方がリスクは小さいからです。さて、この時、熊がいない時に茨の道を通るよりも、熊がいる時での茨の道の方が易々と乗り越えられることが分かります。より大きな怖れ苦しみが、ちょうどそれより小さな茨の道の怖れ苦しみに対しての鎮痛剤乃至は精神安定剤の役割を果たしているのです。
Commented by at 2008-04-26 14:24 x
(つづき)
別の例を出しましょう。ここに注射の痛みによって自分はもしかしたらそれによって破滅して仕舞うのではないのかと怖れかつ苦しむ子供があるとします。そこで彼はどんな策を出すのであろうか?彼は自己を破滅に陥れる前に二の腕を捻る事でより大きな痛みを意識し、注射の痛みを相対的に小さくします、彼にあってはつねる事によって生まれた痛みは注射の痛みに対するちょうど麻酔の役割を果たしているのです。ところが、この小さな子供が注射に怖れる様に我々は怖れないものです、なぜというに、我々は注射の痛みを背負うというリスクを回避することで、かえって病などで後々大きなリスクと苦しみを抱え込む事になる危険性を経験的に理解しているからです。我々は大きな怖れ苦しみを学び知るとき、小さな怖れ苦しみを感じなくなるとはすなわちこういう事なのです、この痛みに関する原理は、体ばかりではなく心における苦しみにも同様の事が言えます。ここに自分の中の心の痛みにもうこれ以上耐えられないという処にまで来ている少女がいるとします。その情動は絶えず抑鬱と自責の念に責め立てられ、その緊張はいつ破れて仕舞うのか分かりません。もしここにほんの些細な衝撃が加わって来ようものなら、恐らく彼女はもうそれに絶え切れる事が出来ずに激しい失意体験の中で身を滅ぼして仕舞うかもしれない。実に彼女にとってみれば他人から見れば容易に片付けられる問題でも、彼女にとっては極限にまでに高められたその苦しみに対する感度ゆえに彼女の前に障害となって立ち塞がり、乗り越える事が出来ないのです。ではその少女はどうするか?彼女は自らの肉体的な痛みによって彩られたその儀式によって自分でどうにもならないその動揺、怒り、空虚感、自己嫌悪の感情の肥大化を摘み取ります。彼女は自分の肉体に染まる痛みと血の悲惨を認識する事で、自らを追い込んだ危機的状況を融解させる無意識的な時間の中を生き、心からの安らぎと落ち着きとが開放感とを得るのです。
Commented by at 2008-04-26 14:25 x
(つづき)
さて、ここまでは、大いなるリスクの前に小さなリスクへの怖れ苦しみは縮減されるという「怖れ苦しみの縮減法則」について述べました。今度は逆に「怖れ苦しみの肥大法則」について考えてみたいと思います。この理屈は簡単です。前者では、Aという怖れ苦しみはそれより大きななBというリスクによって「さらに小さく」されていたと説明されたのですから、後者ではAに対してBというリスクが喪失した場合を考えるのです。つまり、それまでAという怖れ苦しみに対しての鎮痛剤乃至は精神安定剤の役割を果たしていたBというより大きなリスクがなくなったのですから、Aの怖れ苦しみは肥大化すると考えるのです。

さて、鬱や心の病やストレスの時代と呼ばれる現代社会は、この後者の「怖れ苦しみの肥大法則」によってその原因が説明可能だと思います。さて、もともと群れを成して生活する人間は、自然界の過酷な状況という大きなリスクに脅かされていたのですから、人間は自分の本心や利己心や我欲や個性の発揮を我慢するというリスクを背負ってまでも他人との共存を図って暮らして来たのです。つまり、自然界の過酷な状況で一人で暮らすより、利己心を捨ててまでも他人と暮らした方がリスクは小さかったのです。だから他人と社会生活を送る中で生まれる対人トラブルから来る苦しみやストレスといったものはそれだけ小さかったのです。

ところが文明社会を生きる我々は、本心や利己心や我欲や個性の発揮(自我の芽生え)と共に、社会生活から必然と沸き起こって来る対人トラブルから来る苦しみやストレスに悩まされる様になります。なぜか?「自然界の過酷な状況という大きなリスク」が平和と豊かさの実現によって消失したからです。先の熊と茨の道の例えで説明すると、熊はいないのに我々は茨を道を通らなければならないという不合理さに悩まされなくてはならなくなったのです。
Commented by merca at 2008-04-27 09:30
宏さん いつもコメントありがとうございます。論宅です。
「怖れ苦しみの肥大法則」を実証したのが、デュルケームの自殺論かと思われます。平和時のほうが戦争時よりも自殺率が高くなるという結論をだしています。戦争という死の恐怖がない時のほうが、自殺率が高くなります。宏さんが言われている法則がはたらいていると推察されます。
 鬱に伴う自殺念慮は、精神の自己防衛機能と考えることも可能かも知れません。鬱の原因となる社会生活における対人トラブルによる悩みは、死を考えることで、相対化され、確かに小さな悩みとして、構成されます。一切の悩みは死という存在そのものを脅かす悩み=絶対的真理の前に、ひれ伏すことになります。一般に社会構成主義の立場からは、(幸福/不幸)、(裕福/貧困)は、何かを基準にして比較相対してつくられたものと考えます。多くの場合、他者の生病老死を基準にし、構成されます。その基準を絶対化するという作法で、対人ストレスにまつわる悩みを完全に相対化するという自我防衛機能には興味あります。希望をもつことで立直る物語ではなく、自殺念慮や自己否定は、いわゆる「負の癒し」ですね。
Commented by merca at 2008-04-27 09:51
 続きです。ただ一つ付け加えると、デュルケームのいう集団本位型自殺という類型があります。例えば、神風特攻隊の自爆攻撃、宗教上の意図的な殉死などです。死を回避するという個人の生物学的本能を社会や宗教が提供する物語によって超越することもあるということです。必ずしも生物学的な死が、人間の認識・意思・行為を方向付ける絶対的基準として機能するとは限りません。人間は本能が崩れており、死を飼い馴らす閉じた独自の意味世界(多様なものがある。)をつくりだしているおそれもあります。しかし、生物学的本能に基づく「命を大切に」という社会的価値観は、健全なものだと思います。
Commented by at 2008-04-28 14:09 x
論宅さんどうも。人間の怖れ苦しみは「基本的には」生物学的リスクに対する感情だという風に考えた方がいいかもしれませんね。というのも、人間は生物学的リスク以外のもの、例えば人間的なアイディンティティーや価値観の為に死ぬこともあるあらです。例えば尊厳死なんて考え方もそれでしょう。もし、人間にとってもっとも怖れ苦しむべきものが生物学的リスクなら、病棟でどんなに悶え苦しみ絶望し様とも、自然動物がそうである様に、人間もまた死だけは絶対に回避し様とするからです。でも人間は価値観やアイディンティティー(論宅さんの言われる様な意味世界)の喪失が死への怖れ苦しみを上回る事がある。人間は死よりもアイディンティーを失う方が本能的に怖いと感じるからです。なぜなら人間は自分の命はあっても、自分のアイディンティティーを喪失しては生きてはいけいのですから。だから今の日本社会で自殺者が多いのも、確かに死への恐怖や苦しみを忘却して仕舞ったこともあるかもしれませんが、なにより日本人としての誇りだとかアイディンティティーをまったく喪失して仕舞っているからかもしれません。だから「自分さがし」というものが切実な問題となるのでしょうね。
Commented by at 2008-04-28 14:10 x
(つづき)
でも、「生物学的リスクから来る怖れ苦しみ(Aとする)」と「アイディンティティーの喪失から来る怖れ苦しみ(Bとする)」のどっちが大きいかという問題もまたやはり相対的な問題に過ぎません。やはり戦争時や生存的に過酷な状況下では、AはBを小さくするからです。つまりAが増大する時Bは縮小化する(怖れ苦しみの縮減法則)、そして平和時では、Aが縮小する時Bは肥大化する(怖れ苦しみの肥大法則)のです。こうした反比例の法則によって結局人間はAとBの両方から逃れる事は出来ない様になっています。つまり人間は「怖れ苦しみ」から完全に開放される事は不可能なんですね。ところが宗教というものは、Cというより大きな怖れ苦しみを人間に教えることによって、人間がAからもBからも逃れられないという状況を打開し様とします。(これこそが宗教が人間の怖れ苦しみに対しての明晰な判断を持っている証拠です)
Commented by at 2008-04-28 14:10 x
(つづき)
仏教人においてはは彼等がいきて本当に知らねばならない苦しみと怖れを発見しました。彼等はこの地上のあらゆる現世的な苦痛や苦しみを超克している様に見えるのも、かかる苦しみを内面化する事によって達成して来たのです。彼等は、永久不滅の魂の存在を信じると共に、色欲にして物欲、生老にして病死、不安にして絶望の、本来はあらべかざるこの世の醜悪な回転「輪廻」の呪縛を知り、おのが魂がどこまでも真理の目を見開けずに永久にこの地上に彷徨い続けることへの無限の怖れと苦しみとを知ります。彼等にとればその魂の永遠の苦しみに比べたらこの肉体的なる苦しみの一切はまるで移ろい易き影であり、つかの間の遊幻でしかないからです。彼等にとり真理は、この地上一切の蓋然的なる靄の領域をより高いところに超えたその先にあるのです。
Commented by at 2008-04-28 14:11 x
(つづき)
古今の多くの宗教が彼に怖れ苦しみに対して超然とした態度を取る様に教え、世間的な努力では到底及びもしないところまで人間の苦悩を緩和する事に成功しているというのも人間的な怖れや苦しみが相対的で変動し易く気紛れであるその性格を見抜いているからです。実際多くの人は宗教は弱い人間の心の拠所となるもの様に考えているけれども、その真相は心の苦しみに耐えかねた女が自分の肉の悲惨を見つめなければならなくなる理由と同じで、人間の現存在がもっとも戦慄し倦むべき脅威に対して彼の認識力を向けさるだけなのです。かくして彼は真に怖れるべきものを無限の戦慄をもって怖れかつ苦しむ結果、この世が彼の身に課してゆく忍苦や恐怖などはまるで怖れるに足らないものとして眼下に見下すことに成功するのです。(一体宗教が教えるところは人間的な尺度では推し量ることは出来ない次元にあるものです、それは教義の教えるところが我々の日常感性が捉え切ることの出来る範疇以上のものを要求しているからです)
Commented by at 2008-04-28 14:11 x
(つづき)
人間は生きてこの世の生の苦しみを背負い続けなけれねばならない意味があります。しかし、それを背負い続ける為には人間は本当に怖れ苦しみべきものが一体なんであるかを理解しなければなりません。ここに死に臨む二人の患者がいます、一人は死への恐怖を前にしてもだえ苦しみ、一人は心安らかな日々を依然として続けています。処で一人は自然人であり一人はキリスト人です。イエスは自らの肉体の死をもって処せられるゴルゴダの丘まで十字架を背負われました、彼は人類全ての罪が永遠に怖れるべきものの何たるかを学び知ることによって、かかる人類全ての苦悩の象徴たるその十字架のその強大なる重責をその身一つで背負い続ける事が出来たのです。イエスに続く後の人々が「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい(マタイ16:24 )」というイエスの後の言葉を真に理解した時、イエスは我々を永遠の死に向かわせる罪からも解放し、赦し、きよめる道を、これから犯すであろう罪と苦役からも赦されるであろうその奇跡を知っておられたのです。処でキリスト人が学び知った怖れるべきものとは、「死に至る病(キルケゴール)」がそれです。
Commented by at 2008-04-28 14:11 x
(つづき)
キリスト人にとって肉体的な死とは永遠の生命の内部におけるほんの小さな出来事でしかありません。つまりそれはキリスト教の教義が教えている様に、その生命は肉体の死をもっても終わらないのです。そこでキリスト人はその永遠の生命が失われて仕舞う事の何たるかを知ってその終焉に戦慄するのです。キリスト人にあってはこの戦慄の前のいかなる戦慄も――たとえそれが肉体における死だとして――まるでほんの小さなものでしかありません。いわんやこの地上的なるものの一切の破滅、不安、驚愕、病、飢餓、軋轢、悲嘆、挫折、不幸、心労といわれるそのどれも(それがたとえどんなに耐え難く、従って苦痛に満ち満ちたものであったとしても)結局それらもキリスト人にとっての唯一の苦悩、唯一の恐怖の前にはほんの些細なものでしかありません。イエスははっきりこう言われています「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒の命のままである。だが、死ねば、多くの実りを結ぶ。自分の(肉体における)生命にしがみ付く者は、いずれそれを失うが、自分の(肉体における)命から開放される人は幸いである、彼はそれによって永遠の生命の実りに至る(ヨハネ12:24)」
Commented by at 2008-04-28 14:12 x
宗教は最高度の「怖れ苦しみ」を人間に教えることによって、あらゆる世的な人間的な怖れ苦しみからの解脱を人間に図ろうとするのです。これも「負の癒し」ですね。
(おわり)
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