「信じぬ者は救われる」書評2

「信じぬ者は救われる」書評2
菊池教授も香山リカも、ニセ科学を信じる人々の単純な二分法的思考に問題があると捉えている。物事に(ウソ/本当)の白黒の区別をつけたがり、手間のかかる思考判断過程よりも、結果のみを重視する人々の態度に失望している。さらに、科学者が、大衆のそのような願望に応じて、本当の科学とニセ科学の区別をつけてやることにも疑問を抱いている。科学を信じる理由もニセ科学を信じる理由も、同一であり、科学者の権威を無批判に受容する態度にある。言わんとするところは、要するに、自分の理性=思考で物事を判別してから受容せよということだと思う。

 ・二分法的思考は、機能分化した成熟社会における人々の適応形式である。
 菊池教授や香山リカの考えは、理性的啓蒙と呼ばれる立場であり、理性は必ず良い結果をもたらすという安易な前提に基づいている。また、もし理性的啓蒙だけで生きていくとすると、複雑な現代社会に適応できなくなる。理性に過剰に負荷がかることになってしまう。複雑に専門分化した現代社会では、各分野の専門家の行為や言明や技術を信頼し、思考のコストを削減する。これをシステム合理性という。法律的問題は弁護士に相談し、病気治療は医者の診断を受け、経理状況は会計士に監査してもらい、教育は教師に任せるのである。それぞれの専門的な社会的役割を信じることで、社会は回るのである。
 実は、その際、メタコードとして二分法が有効に使用される。例えば、多様な側面を持つ問題に対して、(違法/合法)かというメタコードに基づき、法律の問題として観察されれば、そのように処理される。複雑で多面的な事柄に対して、そのままストレートに関わったのなら、未整理で雑多な複雑性に押しつぶされしまうので、二分法に基づいて処理し、問題を加工して単純化して解決するわけである。例えば、患者として医者と関わる場合、その人物の医者以外の人格全体と関わるとコミュニケーションは混乱をきたし、不確定・不安定となるが、医者だと単純化して見なすことで、コミュニケーションにかかる余分なコストがなくなるのである。(医者/医者でない)という二分法の使用である。このように二分法は、複雑性を縮減し、自我に過剰負担をかけることを防ぐのみならず、役割コミュニケーションをスムーズに進ませ、社会生活上の目的をうまく達成させ、社会秩序を安定化させるはたらきがあるのである。

 このように二分法的思考は、成熟社会の適応形式として極めて合理的なのである。ただし、リスクを考える必要がある。社会学でも、リスク社会論が流行っている。信頼においては、完全にリスクを排除できるわけではない。人々が無条件に専門家を信じることに伴うリスクはある。信頼はリスクと表裏一体である。リスクを管理することが必要となってくる。ニセ科学問題を科学に伴う一つのリスクとして、定式化できる可能性はある。ともあれ、リスクを覚悟の上で専門家を信頼するという態度は、単純な思考ではない。我々個人にできることは、専門家の専門分野を学ぶことではく、信頼とともに生ずるリスク管理だけである。例えば、占いやスピリチュアルを真偽というコードでなく、物語という区別コードで観察する賢明な人々は、ある種、自己でリスクを回避しているわけである。
  
 両氏は、ニセ科学を二分法的思考で単純に信じていると大衆に疑問を投げかけているが、成熟社会あるいはハイモダニティ社会の基本的な在り方に対する無知に基づいているのである。

 

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by merca | 2008-03-09 18:44 | 社会分析 | Comments(1)
Commented by こちらも at 2008-03-10 23:30 x
事実が必要とされない理由 - on the ground
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080304/p2
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