「信じぬ者は救われる」書評3

 「信じぬ者は救われる」書評3

 ニセ科学とスピリチュアルが本質的につながっているという議論もなされており、科学者たる菊池教授もスピリチュアル批判をしている。事実と異なる嘘を言って騙しているという点において両者は共通しており、どちらも信じる側の心理構造が同一だというのである。一方で、宗教は認めるという主張がなされているのが興味深い。さらに、菊池教授が(マーケティング/マーケティングでない)という区別に準拠し、スピリチュアル批判をしている。

  ・なぜ江原氏のスピリチュアリズムのみ批判するのか?
 菊池教授は、現代の宗教の現状をあまり把握していないと言える。宗教社会学を少しでもかじっていればわかると思うが、前世・輪廻転生とかは、あらゆる巨大な新興宗教の教義に出てくる。さらに、信仰で病気が治るという教義を唱えている非科学的な新興宗教はいくらでもある。事実と異なる嘘であるという観点からスピリチュアリズムを批判するのなら、同時に他の新興宗教も全て批判しないといけないことになる。なぜ江原氏のスピリチュアリズムのみが批判にさらされないといけないのか理解できない。
 菊池教授の観点からは、前世・輪廻転生を肯定し、病気が信仰で治癒するという非科学的な新興宗教は、全て嘘によって信者から金をとっていることになるので、批判の対象としないといけなくなる。もし菊池教授の主張に論理的一貫性をもたせようとすると、スピリチュアリズムだけではなく、社会的勢力をもった大きな新興宗教に抗議することになるだろう。ちなみに、仏典には前世・輪廻転生がいくらでも出てくるので、仏教そのものを否定する必要が出てくる。
 ところで、宗教のような組織的な布教活動と違って、江原のスピリチュアリズムは、信じる者の自由選択にまかされており、強制がないのが特徴である。教条主義的一神教のように、自分達の教義が普遍的真理であり、万民が信じるべきであるという大きな物語を人に押し付けているわけではない。
 菊池教授も、一応、宗教には生きる意味を付与する機能があり、科学にはない存在価値があると考えているようである。しかし、それは宗教だけの機能ではなく、スピリチュアリズムにもある。むしろ宗教が十分に機能しなくなったので、スピリチュアリズムがその機能を担うようになったとも言える。社会の進化とともに、宗教が多元的価値(多神教)を認めるスピリチュアリズムに収斂していく可能性もある。

  ・受容形態の相違を無視している。
 第2点であるが、ニセ科学を信じる者とスピリチュアリズムを信じる者の心理構造が同一であるという仮説を検討したい。この仮説は間違いであると思う。やはり人々にとっては科学は手段にしかすきず、もしニセだと分かっても、損失が生じるだけであり、自己存在の否定や生きる意味の喪失にはつながらないだろう。科学を信じる心理構造は、社会的役割=専門家への信頼と同じである。例えば、医者に薬をもらうと、風邪は治るだろうという信頼と同一である。その本質は、専門性への信頼である。ニセ科学を信じる場合も、科学という専門性を信頼しているわけであり、心理構造的には、科学への信頼と同じである。
 一方、スピリチュアリズムを信じる者は、自己の存在理由と可能性を与えてくれるスピリチュアリストによる物語を受容しているわけである。正確に言うと、物語を規範化するわけである。社会構築主義を基本原理とするナラティヴセラピー(物語療法)と原理的には同じである。科学に対する信頼とは次元が異なるのである。物語は、事実として受容されるというよりかは、規範として受容されるのである。物語が、自己の自我観念(アイデンティティ)と結合してしまうわけである。一方、科学への信頼は、自己の自我観念と全く関係なく、手段にしかすぎない。
 このように、科学への信頼とスピリチュアリズムへの信仰は、心理構造において全く異なるのである。

 

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by merca | 2008-03-09 23:26 | 社会分析
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