「事実」という物語

 科学的事実あるいは客観的事実を重視する連中、すなわちニセ科学批判者やスピリチュアル批判者は、結局、事実そのものではなく、「事実」という物語を求めているにすぎないという視点も成立ちうる。事実を物語(思想)として受容し、それが自己観念と結合してしまっているのである。従って、事実を否定されたら、とたんに目くじらを立て怒りだす。正しく、これは、ニセ科学批判者に認められる心的傾向である。事実が自己のアイデンティティと結合し、物語化あいるは規範化してしまっているのである。(事実を事実として受容する人間は、事実と違うことを見ても怒らない。)
  ポストモダン社会となり、全てが相対化され、その相対性に適応できない連中が、「事実」という物語にしがみつき、自我を支えようとしているのである。科学に「事実」というレッテルを貼り、それに依存するのである。

 科学に生きる意味=物語を見い出す人たちは、他ならぬニセ科学批判者たちなのである。「事実」という物語で他者を批判するのはいかに甘美なことであろうか。事実を物語として受容していることに気づかないうちは・・・。彼等は、事実を必要としているのではなく「事実」という物語を必要としているのである。

  参考・・・他ブログ
   事実が必要とされない理由
  

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by merca | 2008-03-11 00:43 | 社会分析
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