物語と科学理論の連続性

 物語と科学理論を対立させて捉える人たちがいるが、実は科学理論そのものが物語の一種であるという捉え方もある。
「信念対立の克服をどう考えるか」という構造構成主義者たちの論文集が出版されている。斉藤氏の書いた「物語と対話に基づく医療(NBM)と構造構成主義」という論文は興味深い。
 全ての物語は、構造(要素と要素同士の関係とその総体)として観察でき、常に構造構成されていくという。物語の要素はテキストであり、テキストはコンテキスト(文脈)によって意味付けられる。理論も、テキストとコンテキストから構成されている。科学理論も、科学の公準(論的一貫性、反証可能性、予測可能性など)という文脈によって担保された一つの物語にすぎないという。
 宗教思想や神話なども物語であるが、テキストとコンテキストから構成されている。宗教思想も科学理論も、物語の一種であり、同一ということになる。違いは何かと言うと、単にコンテキストが異なるだけである。科学理論は、実験と学者同士の議論の中でつくられていく物語である。そして、科学の営みを「くりかえし体験される現象を構造化する目的で物語(広義の)を構成する試み」であると定義している。科学は、実験に基づき、学説=科学理論という物語を生産する活動であるわけである。
 また、斉藤氏による科学の定義の優れた点は、自然科学と社会科学をともに包括できる科学の定義として使用できる可能性があることである。「くりかえし体験される現象」つまり反復性は社会科学の領域でも必要となる。
 科学だけが物語であることを免れるという科学万能主義は通用しない。科学主義は、科学も物語であるにもかかわらず、科学のみを特権化する。科学もニセ科学も神話も、全て物語である。その違いは文脈の違いだけである。

 話題は変わるが、構造構成主義とシステム論との類似性が認められる。構造を「要素と要素同士の関係とその総体」として捉えるのならば、ほぼ一般システム論におけるシステムの定義と同一である。コンテキストつまり文脈を二元コードに置き換えれば、ルーマンのシステム論と重なってくる。
 一つ異なる点があるとすると、システムの「閉じ=閉鎖性」を構造構成主義は十分に取り入れ損ねている。閉じることがないと、システム=構造は一つシステム=構造として定立できなくなる。閉じを可能にするのが、二元コードである。構造構成主義においては、二元コードが二元対立たる信念対立として観察されている側面があるので、「閉じ=閉鎖性」という概念が採用しにくいのだと考えられる。

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by merca | 2008-04-20 16:51 | 理論
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