疑似科学入門書評2

   疑似科学入門書評2
 
 池内氏は、人々が疑似科学を信じ込んでしまう原因を「心のゆらぎ」という心理学的説明に帰着させる。「心のゆらぎ」が認知バイアス(錯覚、記憶違い、思考の変容、知覚エラー、無意識の願望)などによって合理的選択をできなくし、結局、疑似科学を安易に信じるという結果をたもらすわけである。一方で「全てお任せの態度」という要因も述べているが、基本は「心のゆらぎ」という心理学的説明に依存している。
 心のゆらぎに惑わされない合理的な理性を保てば、正しい認識を得ることができるという理性的啓蒙(近代的合理主義)の立場であることがわかる。ここには、個人の理性ではなく、社会システムという集合体の理性=システム合理性を利用するという発想がない。このことから、個人が合理的に振舞えば、疑似科学による被害は防げるという安易な結論が導かれる。「合理的な思考せよ」というメッセージを発信し、各個人を理性的に啓蒙することになる。非合理性に諸悪の根源を求める思考は、俗流若者論者や教育オヤジが、全ての社会病理の原因を道徳の退廃に求めるのと似ている。池内氏に関わらず、大槻教授が特にそうだが、個人の非合理的思考に問題の原因を求める傾向にある。

 基本的に、池内氏の疑似科学入門は、疑似科学の社会学ではなく、疑似科学の心理学である。社会現象を記述する際に「心のゆらざ」や認知バイアス(錯覚、記憶違い、思考の変容、知覚エラー、無意識の願望)などを説明原理とすると、社会学説としては認められない。というのは、社会現象は、あくまでも社会的要因でもって説明するというのが社会学のアイデンティティであるからである。心理学的要因ではなく、社会的要因で説明するのである。社会を論じる際に社会学を気どるネット論者もいるが、そのほとんどがよく読めば、心理学や単なる道徳論に陥っている。社会現象を論じているから社会学であると誤解されがちである。香山リカは社会現象を対象とした本を乱発しているが、そのほとんどがやはり社会学とは言えない。

 とえはいえ、池内氏も社会学という言葉には慎重である。疑似科学の社会学という題名を選択しなかったからである。ニセ社会学として批判されること回避している。ちなみに、社会的要因から疑似科学やニセ科学を分析するとなると、キッセの社会問題の社会学や知識社会学がもっとも適している。疑似科学問題という問題がどのように発生したか、摘発する側とされる側の相互作用として記述されることになる。
 例えば、私のように社会システム論から観察すると、機能分化した成熟社会における専門性(専門家)への信頼という観点から記述することになる。そもそもニセ科学=第ニ種疑似科学は機能分化した社会の当然のリスクの一つであり、個人心理とは関係なく生ずるものであると考えられる。ニセ科学は、個人の非合理的思考とは無縁な社会現象である。従って、ニセ科学批判者の個人的な恣意的運用に任すよりも、人々の民主的合意に基づき、そのリスクを管理する行政システムを確立するほうが得策なのである。

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by merca | 2008-05-04 10:56 | ニセ科学批判批判
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