社会脳論(脳科学批判)

  個人レベルの合理性とは異なり、社会にも合理性がある。

 人類の脳の進化は、クロマニヨン人ぐらいからほとんどとまっているらしい。しかし、人は脳を進化させるのではなく、社会形態を進化させることで、環境に適応してきた。
 実は、社会には脳がある。三人よれば文殊の知恵とあるがごとく、個々人の脳の理性を凌駕した偉大な理性が社会にはある。人間は、社会の理性を利用することで生きているのである。脳科学の欠点は、社会脳の存在を無視して個人の脳だけを分析する視野の狭さである。社会脳との関連なしに、個人の脳はわからないのである。

 伝統は、社会脳の一種である。伝統とは、長い人間の歴史で生き残ってきた知恵である。伝統を踏襲することで、共同体内では、おおよそ、うまくやっていけるわけである。ただし、伝統は、社会が変化すると、通用しなくなるものがあるので注意である。

 社会学者ハーバーマスは、対話的理性(コミュニケーション的理性)という合理性を唱えた。対話的理性は、個人の理性ではなく、他者との対話を通じて社会的に妥当な真理や価値を追究しようとすることを意味している。これは、対話を重視するタイプの民主主義に体現されている。個人の理性には限界があるが、対話的理性という社会レベルの合理性が存在するのである。話し合いで皆が妥当で合意できる真理や価値を生み出すということは、人間がよくやってきたことである。組織が会議を開き、意思決定するのも、対話的理性の利用である。

 社会学者ルーマンや機能主義社会学は、システム合理性という社会の理性を見つけた。例えば、近代家族には、性的欲求の充足化、大人の情緒的安定化、子供の社会化の三機能がある。夫婦は、主観的にはそのような機能などは意識せずに、多くは恋愛感情をきっかけに家族をつくろうとするが、個人的・主観的な意図とは別に、社会的には社会成員の再生産という機能があるのである。また、経済システムにおいては、家族は消費の主体として機能している。
 未開社会にも認められる近親婚の禁止という社会規範も、個々人の主観とは別に、社会連帯をつくりだすという機能がある。このように、主観的な意味づけと離れて、ある行動が社会システムの維持に貢献している場合がある。主観的には不合理であっても、社会レベルでは、社会システムの維持に貢献しており、合理的な行動がある。学校は社会分業を維持するための人員配分機能を担当しているが、当の学生はそのようなことを意識せずに勉強している。「いい大学、いい就職、いい結婚、幸せな人生」という文化的目標を内面化し、勉強に駆り立てられる。
 また、貨幣を用いることで、全くの初対面の人間から欲しい物品を購入することができる。これは社会(経済)システムがあるからである。魚が欲しければ迷わず魚屋に行き、テレビが欲しければ迷わず電気屋に行く。魚が欲しいのに電気屋に行く人はいない。釣りに行く必要もない。貨幣さえあればよい。思考の手間は省かれる。これは、何気なく、社会(経済)システムのシステム合理性を人々が利用しているからである。社会は思考を代替してくれる。もしこのようなシステムがなかったら、人は一から全て思考せねばならず、生きていけなくなるであろう。

  人間の思考は、社会の思考=社会脳によって補われているのである。脳科学が流行っているが、社会脳を分析する社会学と連携も模索して欲しい。
 
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by merca | 2008-05-06 17:10
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