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「若者論を疑え」書評

 後藤和智氏の「若者論を疑え」を自費で買った。
 
 まずは、教育社会学者の本田さんとの対談が面白かった。本田さんがジョック・ヤングの「排除型社会」を後ろだてにし、後藤氏を攻めていた。また、本田さんが若者バッシングの根本原因なるものを後藤氏に問いかけていた。本田さんは、やはり社会学者だと感じた。これは、社会という全体的なものをまず前提とし、そこから問題現象が発生したと解釈するという思考回路である。
 実は、この社会学的な思考回路こそが、後藤氏の方法論と対立するものなのである。ヤングの排除型社会論にしても、基本は、後期近代社会論であり、社会変動をあつかったものである。社会という全体が変動したことに、全ての社会問題の原因を見い出そうとする思考である。マルクス主義者が、全ての社会問題を資本主義社会に帰着させたのと同じである。文化相対主義つまり価値観の多様化が、排除型社会をもたらした根本原因であるという思考は、非科学的であり、解釈論的物語である。
 各種調査における統計的数字の根底にある社会という全体は存在しない。統計は社会という実体を測定したものではない。そのような全体性を仮定することは、物語にしかすぎないからである。社会理論は物語であり、虚構である。排除型社会も物語にしかすぎない。その物語を前提にして、後藤氏に問いつめる本田さんは、滑稽である。後藤氏は、社会理論や社会学説という物語を安易に共有しようとはしないだろう。
 
 しかし、同じく「若者」という概念も、文化的につくられたものであり、一種の物語である。国民という概念がつくられたものであるように、「若者」という概念も社会的に構築されたものであり、物語である。そもそも若者という概念は、歴史的にいうと、いつから誕生したのか? アリエスの「子供の誕生」では、近代に入って子供なる概念や教育なる概念が誕生したことになっている。しからば、「若者」という概念もいつ誕生したのか? 若者バッシング現象を分析するにあたって、何をもって若者と定義するのか、そこから始める必要がある。若者のレッテルを貼られるのは誰かということである。幼稚園児は若者のレッテルを貼られない。そもそも何歳までが若者なのだろうか?
 それに若者という社会的概念そのものが存在しない社会もありうる。(大人/子供)という区別だけで十分な社会も考えうる。若者の反対は、オヤジであると思われる。(若者/オヤジ)という区別である。この区別がどのようにして社会的構成されていくのか分析する必要がある。若者からオヤジへの移行とは、文化的に何を意味しているのか?
 後藤氏のいう若者バッシングとは反対に、若者は社会的に期待や希望の対象としても語られてきていないかと思う。市役所が若者ファーラムや若者イベントなどをよく企画したりしている。本当に若者がダメだったらこんな企画はしないだろう。若者をテーマにしている祭典は多い。青少年センターという建物も多い。NHKの若者番組もある。高校野球も若者の素晴らしさを世間に伝える。世間は若者に期待しているとも考えられる。若者バッシングの反面、若者に期待をかける言説・催し・制度・機関もよく見かける。職安にも、若者のための就労支機関があり、若者は手厚く支援されている。
 実は、若者バッシングは社会現象の一面にしかすぎないのである。これほど、若者に関心を示し、若者を包容している国はないのではないかと思う。若者バッシングや排除型社会といいつつも、若者は基本的に包摂されていると考えられる。そもそもバッシングも若者を道徳的に矯正して社会の一員として包摂するための手段ではないかなと思う。オヤジは本当に若者を排除するためにバッシングしているのだろうか? 
 
 若者が期待・希望の対象から絶望・不安の対象に変化したという解釈はまだ早いと思う。後藤氏は若者にまつわる言説の分析ばかりしているが、社会学的には、若者のための施設・制度・機関・催しの数などの変数も調査しないと、本当に社会から若者がバッシングされ、排除されているかどうかは判断できないのである。

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by merca | 2008-06-02 00:15 | ニセ科学批判批判
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