社会理論の可能性とその中心

 社会理論というものを全く理解していない人たちがいる。社会科学の素養がない浅学の者は、社会理論に対して社会という現実の対象を写し取った事実それ自体であることを要求する。それは、自然科学的な認識論に基づく偏見である。そもそも社会的事実それ自体を写し取ることは不可能である。それはむしろ逆であり、ある出来事を社会的事実として解釈することで、社会的事実はつくられる。この解釈作業のためには、社会理論が必要となる。社会理論なき者には、出来事は単なる出来事の雑多な羅列にしか映らない。 
  社会理論には、コントの「社会進化論」、デュルケームの「社会分業論」、テンニースの集団類型論、ジンメルの「形式社会学」、マックス・ヴェーバーの「行為の四類型」「官僚制論」、パーソンズの「社会体系論」、ルーマンの「社会システム論」、マルクスの「資本論」、ハーバーマスの「対話的理性」、富永健一の「近代化論」など、様々なものがある。
 これらの社会理論は、いわゆる自然科学で言うところの仮説ではない。社会を観察・解釈するための認識道具である。私は、あえて社会理論が物語であると断言しているが、それは社会理論が出来事に意味を持たせることができるからである。出来事は社会理論という観察・解釈道具を通して意味付与され、物語化されるのである。
 一つの絵を見て何かの絵だとわかるのは、人間が対象を整理する認識枠組みをもつからである。人間には、モナリザの絵は、雑多な色の点ではなく、美しい女性だと映るのである。しかし、人間と同じ認識枠組みをもたない動物にとっては、色の点にしか映らない。また、遠くの星は肉眼では見えないが、望遠鏡を使えばハッキリと見える。その望遠鏡が社会理論である。社会学者は、素人が見えないものまで見る。
 ただ、自然科学のように、科学という一つの方法=認識枠組みだけを唯一絶対化することはない。社会学は、多様な認識枠組み(=多様な社会理論)の有効性を認め、より豊かな知識を得ることを目指している。
 ソーカルの間違いは、ポストモダン社会論を対象に対する認識内容だと見なし、観察・解釈の道具であるとは気づかなかったことである。ソーカルの過った議論に準拠してポストモダン理論がダメだと豪語している連中は滑稽なのである。


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by merca | 2008-06-07 00:51 | 理論
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