格差社会という虚構の絶対化

 現在日本社会を格差社会と位置付ける学者たちがいる。格差社会は、二極化社会とも呼ばれたりする。(正社員/派遣社員)、(勝ち組/負け組)という二極化された区別コードによって創発された社会観である。
 しかし、別の区別で観察すると、格差社会論は無意味化する。例えば、(日本/外国)という区別で観察すると、日本よりも格差が大きい社会はいくらでもあり、日本は格差社会とは言えなくなる。また、前近代の身分制社会と比較すると、現代のほうが格差がない社会である。では、格差社会は、どの社会との区別によって格差社会足りうるのだろうか?おそらく、高度経済成長期の一億総中流社会と呼ばれていたころの日本社会との区別において格差社会と呼ばれるにすぎない。格差社会論も絶対的なものでなく、観察地点によって異なる相対的な社会観なのである。格差社会論は、一つの社会解釈の枠組=社会観であり、社会的事実そのものではない。自己の観察点によって、社会は全く反対の諸相をもって立ち現れてくるのである。その意味において、社会を語ることは、自己の立ち位置を語ることと同義である。社会認識は、自己言及である。

 秋葉原通魔殺人事件については、報道では、犯人は格差社会の温床である派遣会社での挫折によって将来に絶望して自棄を起し、反抗に至ったというように語られている。   
 犯罪行為の原因を本人の性格的要因(人格)ではなく、格差社会による将来への不安感・絶望感という社会的環境要因から解釈する人たちもいる。
 この場合、二つのレベルを区別をしておく必要がある。本人自身から聞いた犯罪動機=個別的因果関係と、学者が観察する犯罪原因=一般的因果関係は異なるということである。殺したいから殺したという少年の猟奇的殺人と異なり、今回の犯罪動機は、非常に理解しやすいものとなっており、物語化しやすい。逆に言うと、安易に格差社会論者やワーキングプア論者の社会理論=物語の中に吸収されてしまうおそれがある。格差社会が犯罪の原因であるという因果図式である。犯人自身が(格差)社会に失望したことを動機としているのなら、個別のレベルでは、この因果図式は正しい。法学的に言うと、犯人がそう思い込んで、犯行に及んだら、それを否定するわけにもいかないからである。犯罪の主観的認識=犯罪動機の個別的真実性である。
 ところが、ここで、一つの飛躍が生ずる。主観的犯罪動機たる個別的因果関係の一般化現象である。つまり、格差社会論やワーキングプア論のせいで、犯人の犯罪物語が一般化され、格差社会の犠牲者として語られるようになることである。被害者の視点に立てば、エゴイストの極悪人にしかすぎない人物が、このように語られるのなら、本当に不条理なことであろう。派遣会社で挫折し、将来に不安感や絶望感をもつ者など、日本全国にいくらでもいる。本人だけが殺人に至ったわけであり、当然のごとく、格差社会での絶望感が殺人行為をもたらすという因果図式は全く一般化・法則化できない。しかし、学者やニュースキャスターが犯罪の背景には格差社会の問題が潜んでいるので無視できないという発言をした場合、人々は、格差社会での絶望感が殺人行為や他の犯罪をもたらすという因果図式を一般化してしまうおそれがある。そのような言説がコピーキャット犯罪を生み出す。社会が配給する流行の犯罪動機のカテゴリーを採用し、自己の不全感を発散しようとする馬鹿の登場である。さらに、格差社会論やワーキングプア論という物語が、その馬鹿の後押しをする。馬鹿が何人か出てくれば、予言の自己成就となり、因果図式はより一般化される。

 視点は変わるが、一つの社会観を絶対化することが社会病理につながる。この場合の絶対化とは、社会を物語ではなく、事実として受けとることを言う。つまり、一つの客観的な社会的事実が存在すると信じ、他の多様な解釈による物語を排除することである。自然科学のように、一つの対象に一つの事実=真理しかないという物理的リアリティとして社会を捉える思考枠組みである。社会はこれこれであると、固定化して捉え、その社会の中で縛られて生きているという意識となる。それは、全共闘世代において、社会を資本主義社会としてしか観察できなかった左翼の若者の社会病理現象に見て取れる。報道による秋葉原通魔殺人事件の犯罪動機からすると、格差社会が一つの相対的な視点から構築された物語にしかすぎないのに、それを不動の動かぬ客観的事実であると見なして自己を位置付けたことで、自己を追い込んでいるように見える。これは社会を絶対的な客観的事実として見なすことによる自己閉塞感である。そして、社会を実体視する典型的な社会宿命論である。社会が自己の存在に立ちふさがる一つの絶対的な化け物として表象されているのである。
 社会理論を利用して社会を主観的に自由に解釈してもいいが、複数の解釈を採用し、状況によって使い分ける社会構築主義のような器用さが必要なのである。当人が主観的な解釈とは思っておらず、客観的事実だと思っているのが問題なのである。社会を語ることは物語をつくることであるという相対的な感覚が、社会病理を防ぐのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2008-06-15 23:09 | 理論
<< 自然科学と輪廻転生の親和性 社会理論の可能性とその中心 >>