自然科学と輪廻転生の親和性

 物事には必ず原因があるという物の見方を因果図式という。因果図式に準拠した思想の代表が仏教と科学である。物事を認識する際に、因果図式という道具を使うのである。しかし、因果図式だけが認識の道具ではないことを言っておこう。例えば、法学は、因果図式を越えた人格の自由意思なるものに準拠して理論を構成している。

 問題は、自然科学である。自然科学が使用する因果図式は、仏教と異なり、かなり単線的である。一つの原因に一つの結果という単線的因果関係を追求している。仏教の場合、縁起の法といい、宇宙全体によって一つの存在が支えられるという多原因論をとり、自然科学のように一つの因果関係を絶対化しない。自然科学は、完璧な一因一果論である。
 実は、自然科学的な因果図式という思考枠組みからいうと、輪廻転生が論理的に正しくなる。ある一つの存在が無に帰すことは結果のない原因を認めることになり、因果法則に反することになる。そうなると、一度、一つの存在を同定したらその結果を無限に想定せざるを得なくなるからである。自然科学は、一つの存在が完全無に帰すという発想をとることができないのである。前世が今世の原因となり、今世が来世という結果を生み、永遠に因果関係が連続的に続くのである。因果律という自然科学の思考枠組みがスピリチュアリズムが唱える輪廻転生を肯定する思想であることに気づいている人は少ない。スピリチュアリストが自己の主張が科学と矛盾しないというのは、このような思考枠組みにかかる根本的事情による。疑似科学批判者たちは、この点について全く気づいていない。自然科学者とスピリチュアリストは、因果図式という共通のコードに一部準拠しているのである。
 しかし、この一因一果論的な思考枠組みが絶対化・実体化されると、様々な疎外現象が生起する。例えば、「正社員になれなかったら負け組になる」という文化物語を一因一果的に捉えると、正社員になれなかった人は救いがなくなり、自己を追い詰めることになる。社会統計調査などを絶対化・実体化し、貧困と犯罪に相関関係があっただけで、因果関係と勘違いし、貧困が犯罪をつくったという物語を流布しだす人もいる。

 因果図式の他にも、弁証法やシステム論のようなパラダイムもある。多様なパラダイムに準拠して、事物を観察することができるのである。とらわれること勿れである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
[PR]
by merca | 2008-06-29 09:20 | 理論 | Comments(9)
Commented by at 2008-09-01 08:53 x
人間はこれまでただ一度たりとでも自由意志を持った事などあったのでしょうか、またそれははたして可能なのでしょうか、、、必然的な因果律のここれまた必然の運動でしかない宇宙から、これまたその延長線上の存在でしかない人間だけが何事かに対して「かくあれかし」といって 自分で勝手に対象に働きかける、などということがそもそも可能なのでしょうか。 その際人間はただそれは「自分自身の自由意志でやったことだ」とあくまで思いこもうとする、、、

まさしく、我々の知性が世界のマクロ、ミクロの両局面においての全記述を完全には 成しえないということが、人間が因果律よりも自らの自由意志を信じる傾向を必然的に「規定している」、 のだと思います。例えば、我々が人間の自由意志を信じて歯を食いしばってより良く生きようとする「やむにやまれぬ生の必然」もまた我々を現象として「そう規定している」 といったような具合に。
Commented by 論宅 at 2008-09-02 08:16 x
 宏さん いつもコメントありがとうございます。
 スピノザの思想に近いですね。宇宙は必然であり、人間はそれを認識できないので、自由意思があると思い込んでいるだけであるという考えですね。
 ちなみに世界が偶然か必然かは、人間の理性では捉え切れないという考えは、カントのアンチノミーとして有名ですね。
 自由意思については、柄谷行人によれば、必要的虚構(物語)ということになります。自由意思を仮に認めることで法律の世界は成立ち、社会秩序は維持されます。犯罪者は自由意思で犯罪をしたということで、罰することが可能になり、道徳、規範、法律は社会的に意味をなします。カントのいう実践的理性の範囲です。
 さらに、人間の定義ですが、人格をもち、自己決定できる意思をもつ存在であるとよく考えられています。人権思想もここに端を発します。
Commented by 論宅 at 2008-09-02 08:34 x
理性的な自由意思は、因果律を前提とします。人は、ある目的を達成するために、因果律を利用します。例えば、お湯が欲しい時には、鍋に水を入れ、火を炊きます。これは、水が熱を加えると沸騰するという自然の因果律を利用しているわけです。因果律を目的手段図式に変換して行為することを合理的行為と言い、マックス・ヴェーバーが指摘したのは有名です。人間が、科学技術を使用し、自然を好きなように支配するという現象も、人間の自由意思による因果律の使用です。むしろ、自由意思が因果律を好きなように利用しているという側面もあるわけです。自由意思による理性的行為は、かえって因果律をつよく認識していると思います。
 ただし、このような理性主義は、傲慢なものとしてポストモダン思想からは理性の暴力として否定されることがよくあります。理性批判は、ポストヒューマンの系譜に属します。
Commented by at 2008-09-03 19:12 x
例えば僕が震災等で家族を失った場合、その事件を僕は不可解なものとして「なぜ?どうして?」とその理由を求めます。僕の目の前に横たわる世界の運動は僕にとっていつも不透明であり、その必然の運動は僕の不完全な知性によってはどうしても捉える事は出来ません。前論宅さんが仰った世界の根源的偶発性(不確定性)ですね。だから人類はこれまでその世界の根源的偶発性を宗教の提示する物語によって処理して来ました。

これは世界に対しての不確定性なのですが、同じ様に僕にとっては目の前の人間の行為も不確定です。コミュニケーションにおいては必ずダブルコンティンジェンシー問題が付きまとっていて、人間はこの問題を完全には解決し得ません。ではこの対人関係の中に横たわる不確定性を僕はどう処理すればよいのだろうか?それが「自由意志」です。僕はとりあえず「あいつのやっている事は、あいつの自由意志が勝手にやった事なのだから」と思考する事によって対人関係の不確定性を処理します。
Commented by at 2008-09-03 19:13 x
(つづき)僕の言いたかった根本の処はここなんです。人間が世界の根源的偶発性を宗教的教義によって処理した様に、人間の自由意志への信仰はある種の宗教の形態なのだと思います。
Commented by merca at 2008-09-03 23:05
宏さん 論宅です。なるほど、宏さんのおっしゃるとおりです。つまるところ、システム論的には、自由意思や人格という信仰が複雑性の縮減につながっているということですね。自由意思は、宗教と機能的等価というのはよくわかります。
 それと、システム論を学ぶには、下のブログも参考になります。私と同じシステム論者です。
 http://amr-i-t.com/2008/06/post-56.html
 あと一人、システム論の伝説的ブロガーいます。社会学者・芹沢一也や安原女史と討論した人物です。今は、狂人となっています。
 「てーげー革命」で検索してみて下さい。
Commented by at 2008-09-05 08:58 x
処が、一見して宗教と機能的等価に見える自由意志なのですが、宗教の機能的価値と相反する側面を含蓄しているのではないか?と考えたりして居ります。というのも、宗教の引き受ける機能的役割の本質は、あくまで人々の苦痛を和らげる点にあるのですが、この点、自由意志がその宗教的機能と同じ役割を果たすかというとそうでもないんです。むしろ、余りにも行き過ぎた自由意志への信仰は、かえって人々が社会生活を生き辛く感じさせて仕舞う事もあるんじゃないかと思うのです。

自由意志とは、あるもたらされた結果を自分自身(または他人)が主体的に判断し行動する事によって、引き起こされたと考えるのですから、その結果の原因を生み出したのは自分だと思い込む事を意味します。例えば、ある人が受験に失敗すると、「自分の努力が足りなかったんだ」あるいは「自分には能力がないんだ」と自分のせいにするのです。
Commented by at 2008-09-05 09:03 x
(つづき)
これは非常に自己否定的で、ネガティプな抑圧された思考をもたらします。これと反対に、物事が上手く回っている間は、自由意志は人間に自己肯定的で、ポジティブな高揚された思考を齎します。

イスラム教は日本ではあまりいいイメージをもたれていませんが、実際には人々にとってとても優しい宗教です。彼等はある自分にもたらされた結果の原因を自分に帰せず、それはすべてすべて神の御心だ、と考えます。受験に失敗したのは、自分のせいではなく、神がそう望まれなかったからなのであり、神がまだその機が熟していないからと考えておられるからであり、要するに「神のせい」なのです。聞く処によるとイスラム教には医者にかかる者に鬱病ないといいますが、こういった処にそれを読み解くヒントがあると思います。

これに対して、日本ではあまりにも自由意志への信頼が過剰に行き過ぎたがために、人々はとても窮屈な思いをしているのではないかと思います。日本では努力主義が蔓延し、自分に齎される幸不幸も、すべて自己責任であるかの様に処理されます。勝組負組みになるかも「努力が足りない」または「能力のない」その者の自己責任として語られます。
Commented by at 2008-09-05 09:06 x
自由意志は人間に自己卑下を齎します。
<< 反貧困から貧困の免疫化へ 格差社会という虚構の絶対化 >>