反貧困から貧困の免疫化へ

 (排除/包摂)というコードから社会を観察する世論や理論が増えてきた。近代社会後期を排除型社会と位置付け、その社会病理を指摘する議論である。ひと昔前は、社会主義等が準拠していた(差別/平等)が社会病理のキーコードになっていた。様々な人権運動や解放運動は、(差別/平等)の観点から社会問題を構築してきた。
 だが、最近は、(排除/包摂)という図式のほうが優勢になっている。社会福祉の分野においては、(排除/包摂)という観点はメインになってきている。貧困者、失業者、ホームレス、障害者、犯罪者、高齢者、派遣社員等が社会的排除の対象となっているという。社会的排除というのは、教育、家族、企業福祉、公的福祉、自己(道徳)の五つのシステムから排除されているという意味である。一方、子供と女性は包摂=保護の対象となっている。例えば、治安悪化神話社会では、子供を犯罪から守るために、あらゆる社会的領域から犯罪者を排除するという構図が出来上がっている。
 
 ここで、宮台氏がよく使う論法であるが、包摂は必ず排除を伴うことを押さえておきたい。福祉等の社会的援助の対象になるかならないかは、一定の基準がある。基準に合う者は援助されるが合わない者は排除される。完璧な包摂は原理的に不可能なのである。よく使われる基準に、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という区別がある。例えば、働くことを選択できるはずなのに、働かず貧困になっている人は福祉の対象にならない。(排除/包摂)という区別は、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という別の区別に依存しないと、パラドックスに陥るわけである。脱パラドックス化するためには、このように全く別次元のコードを参入させることになる。
 
 湯浅誠氏というホームレス問題の大家がいる。湯浅氏は、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という区別に準拠し、排除されている貧困者、失業者、ホームレス、障害者、犯罪者、高齢者、派遣社員を(自己責任=自己選択でない)という項に押し込めて、貧困問題を構築している。典型的な包摂主義社会論者のコードである。教育社会学者の本田さんも(排除/包摂)にこだわり出している。
 ただし、厳密に言うと、(自己責任=自己選択/自己責任=自己選択でない)という区別にもう一つの隠れた区別を参入させることで、湯浅氏の貧困問題は構成されている。それは、(社会/個人)という区別である。つまり、自己責任でない場合、それを個人的な事情に帰着させるのか、社会全体の仕組みに帰着させるのかでは異なる。湯浅氏は、貧困を個別事情ではなく、社会全体の仕組みに帰着させ、貧困問題を社会問題化しようとする。溜めのない社会が貧困問題の根本原因であると喝破している。溜めとは、機能遂行するための潜在能力を意味しているが、社会学でいう文化資本を含めた財一般を指すものと考えられる。社会という全体性を仮設している点において、数字の集まりとその傾向に終始する統計主義とは異なるように思える。
 
 しかし、社会病理学的あるいはデュルケーム流に言うと、一定数の犯罪はかえって健全な社会の証拠であるのと同じく、一定数の貧困がある社会はかえって健全な社会であると言えよう。社会から貧困を完全に排除することは不可能である。現代日本社会は貧困な社会というよりも、貧困とつきあう免疫力がない社会かもしれない。貧困との付き合い方を忘れているのである。歴史上、日本も世界も貧困であった時期のほうが長いからである。
 そこで、社会病理に対する(免疫力がある/免疫力がない)という区別に準拠した「免疫化社会論」を唱えたい。包摂社会論に対抗し、免疫化社会論を構築したい。それは、一定数の貧困や犯罪等の社会病理があっても、モラルパニックを起さず、社会全体として無害化していく社会である。

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by merca | 2008-07-05 15:55 | 社会分析
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