生きる意味の脱パラドックス化

 生きる意味とは何か? を考えてニヒリズムに陥る者が多い。 
 生きる意味を追求する思考は、必ず自己言及のパラドックスに陥る。一つの生きる意味が見つかったとしても、またそれを根拠付ける意味が必要となり、無限遡及に至るからである。これは、(意味/無意味)という区別自体に(意味/無意味)という区別を自己適用していることになる。
 同じく、(本当の)自分とは何か?を考えて独我論に陥る者は多い。
 自分とは何かを追求する思考は、必ず自己言及のパラッドックスに陥る。自分が何であるかがわかった途端、その何とは何かという疑問が生じ、無限遡及に陥るからである。これは、(自分/自分でない)という区別自体に(自分/自分でない)という区別を自己適用していることになる。
 善悪、真理、幸福など、これら全ても同じである。

 このように全ての哲学的課題は、必ず自己言及のパラドックスに陥り、原理的に答えることは不可能であり、不毛な議論となる。
 そこで、物事の何々である(=本質)を問うのではなく、物事が何々としてありうる(=用)というレベルで観察することがコミュニケーションを連接させていくことになる。
 例えば、リンゴは植物であるということよりも、リンゴは食物としてあり、リンゴは商品としてあり、リンゴは贈物としてあり、という具合に、関係相関的に観察していくことのほうが我々の生活にとって現実的なのである。この「として」そのものが特定の区別に基づいた観察であることは言うまでもない。
「生きる意味とは何か?」という哲学的課題についても、生きる意味は、自我統合の機能としてあると、社会心理学的に答えることが可能である。生きる意味に対して、(自我統合/自我解体)という区別から観察したわけである。これは一つの脱パラドックス化である。
 また、善悪とは何か?という課題は、善悪(道徳)は社会統合の機能としてあると、社会学的に答えることが可能である。善悪に対して、(社会統合/社会解体)という区別から観察したわけである。これも一つの脱パラドックス化である。善悪や生きる意味などの哲学的課題に対して、人間科学の立場からは、それがどんな内容であれ、自我統合や社会統合の機能を発揮する可能性があると解釈するわけである。内容は問わず、形式から答えることで哲学的難問を別次元の話にしてしまうのである。哲学と宗教に対して、(内容/形式)で観察するのが人間科学の常套手段なのである。

   参考
 ちなみに、生きる意味については、社会学者宮台氏が(意味/強度)という区別から観察し、脱パラドックス化を試みたことは有名である。(意味/強度)というコードをもってして、知的なタイプの意味系、超越系の若者への処方箋としたのである。これは、極めて社会学的な処世方法である。

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by merca | 2008-07-26 22:23 | 理論
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