(論証/実証)という区別

 実証主義の呪縛を解くために少し例をだそう。世の中には実証ではなく、論証のみで正しいことはいくらでもある。
 例えば、ある人が一個のボールを空箱の中に入れ、その後に別の人が二個のボールを同じ箱に入れたとする。この場合、調べなくても箱の中には、ボールは三個あるという真実を論証することができる。つまり、調べて実証する必要はない。
 次に、重さが1キロの鉄板を10枚重ねて束ねたとする。その束の重さは、天秤で測らなくてもわかる。1×10で10キロである。調べなくても、論証で済む。
 最後に、Aの身長はBより高い。Bの身長はCより低い。この場合、AとCの身長のどちらが高いかは実際に両者を比較して調べなくてもわかり、実証する必要はない。AよりCの方が身長が高いことは論証できる。
 このように実際に調べて実証しなくても不都合はなく正しさを導き出することは可能なのである。何でもかんでも実証しないと正しくないという考えは間違いである。同じくポバーの反証主義も間違いであることがわかる。先の事例では、反証のための実験を何度繰返しても同じ結果になるであろう。調べなくてもたちどころに真理は手に入る。
 実は、数学と論理という法則だけで十分であり、実証などあまり気にせずに、数的原理や論理法則に基づいて人々は現実に生活している。同じく社会にも特有の論理があり、それを観察することで、人々は生活している。社会特有の論理は、区別という観察の形式によって露になる。
 数学や論理学は、実証ではなく、論証だけでその正しさを獲得する。同じことは、社会学にも言える。ある社会における根本論理(メタ論理)を観察できれば、実証などなくても、簡単に正しさを導き出せるのである。これが理論社会学の究極的な到達点である。
 科学を(論証/実証)というメタ区別で観察すると、科学は実証に論証を従属させるという思考形態である。論証されたところで実証されなければ真理とされない思想である。科学的真理は実証的真理であるが、先の例のように論証的真理も存在しうるのである。(注意・論証的真理は頭の中の観念世界のできことではない。ここが大切。)
 科学のみが他の知識体系と比べて今のところ信じる値する人類の唯一の知識だという凡庸な信念をもつ連中がいるが、実証や調査を伴わない論理法則と数的原理に基づく論証的真理も存在し、科学よりも確かである。社会における論証的真理がシステム論などの理論社会学による記述であることは言うまでもない。このことがわからず実証主義のみに囚われて社会を語る者は、(論証/実証)というメタ区別に盲目すぎるのである。実演主義においては、論証と実証は一致するが、実証主義たる科学は両者の解離を出発点とする。(論証/実証)の落差が科学の意味をつくる。

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by merca | 2008-08-06 22:17 | 理論
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