(論証/実証)という区別

 実証主義の呪縛を解くために少し例をだそう。世の中には実証ではなく、論証のみで正しいことはいくらでもある。
 例えば、ある人が一個のボールを空箱の中に入れ、その後に別の人が二個のボールを同じ箱に入れたとする。この場合、調べなくても箱の中には、ボールは三個あるという真実を論証することができる。つまり、調べて実証する必要はない。
 次に、重さが1キロの鉄板を10枚重ねて束ねたとする。その束の重さは、天秤で測らなくてもわかる。1×10で10キロである。調べなくても、論証で済む。
 最後に、Aの身長はBより高い。Bの身長はCより低い。この場合、AとCの身長のどちらが高いかは実際に両者を比較して調べなくてもわかり、実証する必要はない。AよりCの方が身長が高いことは論証できる。
 このように実際に調べて実証しなくても不都合はなく正しさを導き出することは可能なのである。何でもかんでも実証しないと正しくないという考えは間違いである。同じくポバーの反証主義も間違いであることがわかる。先の事例では、反証のための実験を何度繰返しても同じ結果になるであろう。調べなくてもたちどころに真理は手に入る。
 実は、数学と論理という法則だけで十分であり、実証などあまり気にせずに、数的原理や論理法則に基づいて人々は現実に生活している。同じく社会にも特有の論理があり、それを観察することで、人々は生活している。社会特有の論理は、区別という観察の形式によって露になる。
 数学や論理学は、実証ではなく、論証だけでその正しさを獲得する。同じことは、社会学にも言える。ある社会における根本論理(メタ論理)を観察できれば、実証などなくても、簡単に正しさを導き出せるのである。これが理論社会学の究極的な到達点である。
 科学を(論証/実証)というメタ区別で観察すると、科学は実証に論証を従属させるという思考形態である。論証されたところで実証されなければ真理とされない思想である。科学的真理は実証的真理であるが、先の例のように論証的真理も存在しうるのである。(注意・論証的真理は頭の中の観念世界のできことではない。ここが大切。)
 科学のみが他の知識体系と比べて今のところ信じる値する人類の唯一の知識だという凡庸な信念をもつ連中がいるが、実証や調査を伴わない論理法則と数的原理に基づく論証的真理も存在し、科学よりも確かである。社会における論証的真理がシステム論などの理論社会学による記述であることは言うまでもない。このことがわからず実証主義のみに囚われて社会を語る者は、(論証/実証)というメタ区別に盲目すぎるのである。実演主義においては、論証と実証は一致するが、実証主義たる科学は両者の解離を出発点とする。(論証/実証)の落差が科学の意味をつくる。

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by merca | 2008-08-06 22:17 | 理論 | Comments(41)
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-19 16:12 x
こんにちは。

細かい部分ではあるのですが、本エントリの内容について少し疑問に思う事があったので、質問させていただきます。

前半部分に於いて「実証ではなく、論証のみで正しいこと」の例をいくつか挙げておられますが、mercaさんがこれらの例を通じて仰りたい事というのは、つまり演繹的な手続きを経る論証の正しさというのが先験的なものである、という事でしょうか[質問A]。

仮にそうだとした場合、それを前提として「何でもかんでも実証しないと正しくないという考えは間違いである」を導くのは問題ないと思うのですが、しかし、「同じくポバーの反証主義も間違いである」が導かれるかというと、それは疑問に感じます。

というのも、mercaさんの仰る「ポバー」なるものが、私の知る<カール・ポパー>であるとすれば、その人の唱えた反証主義というのは、「何でもかんでも実証しないと正しくないという考え」とは異なり、仮に[質問A]に対する答えがYESであったとして、そこのみから「間違いである」とする事が出来ないものであると考えられるからです。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-19 16:13 x
ポパーの反証主義に於いて反証可能性が要求される対象は、科学的仮説に限られるはずです。
ここで科学的仮説というのは、この世界の現象についての推測的陳述の事になります。

mercaさんが挙げられた例は、全て<AならばB>という形の推論として捉える事が出来ますが、科学的仮説すなわち反証主義が適用される対象というのは、形式的には、この<AならばB>という論証の全体ではなく、<A>の部分にあたるものです。
この<A>の正しさ・確からしさは、演繹的推論の真理保存性からは保証されません。
仮説<A>がこの世界の現象についての陳述である以上、その正しさ・確からしさは、実験や観察といった実証的な手続きによって示される必要があるとすべきでしょう。
そして、反証主義の基本的な考え方というのは、私の理解では、この<A>という仮説に対して<AならばB>という演繹的推論を構成し、<B>の成否を実験あるいは観察によるテストによって確かめ、仮に<Bでない>という結果が得られたとすれば、<BでないならばAでない>という演繹的推論の正しさを"利用して"、仮説<A>を棄却するというものです。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-19 16:19 x
要するに、反証主義というのは、そもそも実証的な手続きを経る必要がある限定的な範囲の問題についての立場の内の一つであり、従ってそれを「間違いである」とするためには、「実証ではなく、論証のみで正しいこと」があるという事ではなく(反証主義は、その正しさを利用しているとさえ言える)、もっと他の事実を持ってくる必要があるのではないでしょうか[質問B]、という事です。

以上の疑問は、もしかしたら、私が何か勘違いをしている事によって生じたものかもしれません。
もしそうである事に気付かれた場合には、出来たらご指摘くださるよう、お願いいたします。
Commented by merca at 2008-08-23 13:34
悦楽共犯者さん はじめまして 論宅です。コメントありがとうございます。
 つまり、全称命題の原子命題にのみ反証主義は、適用可能であり、複合命題は適用外であるということですね。そうなると、科学的仮説は、かなり限定されてきます。すると、反証主義は、複合命題を適用範囲に入れると、成立たなくなるということですね。
 真偽というメタコードから観察すると、実証と反証は同じです。実証は命題が真であることを証明することであり、反証は命題が偽であることを証明することですが、反証は、「「AがBである」ことが偽であること」を実証することを意味します。実験や観測によって真偽を確かめるという点において、反転はしてますが、実証も反証も同じです。その本質は、実験や観測によって真偽を確定することに他なりません。私が否定するのは、何でもかんでも実証や反証がなければ真偽を確定できないとする極端な実験主義の立場です。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-23 15:48 x
こんにちは。論宅さん(とお呼びした方がよいのかな?)。
お返事ありがとうございます。

---以下引用---
つまり、全称命題の原子命題にのみ反証主義は、適用可能であり、複合命題は適用外であるということですね。
---以上引用---

すみません。私の書き方が悪かったせいで誤読をなさってしまったようです。
私はそんな事は言っていません。
従って、私のコメントをいかに要約した所で、上に引用したような文章にはなりません。

おそらく論宅さんは、私が、反証に用いる演繹的推論の例として<AならばB>という単純な見かけの論理式を挙げた事によって上記のような読み方をされてしまったのだと思うのですが、私はこの<A>という論理式を必ずしも単独の命題変数からなるもの(原子式)として用いたつもりではありませんでした。
それは、私が、論宅さんが記事本文冒頭で挙げられたいくつかの例を全て”<AならばB>という形の推論として捉える事が出来る”と表現した事から理解していただけると思います。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-23 15:50 x
従って、

---以下引用---
反証主義は、複合命題を適用範囲に入れると、成立たなくなる
---以上引用---

という事にはなりません。
よろしいでしょうか[質問C]。

そして、

---以下引用---
私が否定するのは、何でもかんでも実証や反証がなければ真偽を確定できないとする極端な実験主義の立場です。
---以上引用---

という事なので、論証的真理の正しさを認める事からそのような立場に立っているとは言えない「ポバーの反証主義」が、”記事本文のロジックからは”否定出来ないものである、という事は納得していただけたのでしょうか[質問D]。

あと、ちょっとした事ではあるのですが、上に書いた四日前のコメントは一応<質問>の形式をとったものであったので、出来ればお返事は<回答>を含むものであってほしかったな、なんて(笑)。
Commented by 論宅 at 2008-08-23 18:35 x
論宅です。返信ありがとうございます。
 [質問D]ですが、反証主義が論証的真理(私が事例で示したような実証や反証の必要がない論証のみの真理)の正しさの存在を許容したとしても、それを科学的真理として正しいと認めているのかどうかは疑問です。
 反証主義は、論証的真理に科学的真理としての正しさを認めているのでしょうかね? 
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-23 18:57 x
こんにちは、論宅さん。
さらにお返事ありがとうございます。

---以下引用---
反証主義は、論証的真理に科学的真理としての正しさを認めているのでしょうかね?
---以上引用---

すみません。
「科学的真理」というのがどういう意味なのか判然としないのでお答えのしようがありません。
もし宜しければ、「科学的真理」の定義をお教えいただけないでしょうか[質問E]。

(個人的には、もし仮に論証的真理というのが演繹的な手続きを経る論証の正しさとイコールであり、そしてそれが先験的なものであるとするならば、つまり[質問A]に対する答えがYESであるならば、それは明らかに真理であり、間違いようもなく”正しい”のですから、「~的真理」などという呼び名にこだわる必要はないように思うのですが……。)
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-23 21:07 x
と、今ふたたび記事本文を読み返してみましたら、

---以下引用---
科学的真理は実証的真理であるが、先の例のように論証的真理も存在しうるのである。
(中略)
論証的真理も存在し、科学よりも確かである。
---以上引用---

と書かれてありましたね。
これを素直に解釈すると、論宅さんご自身が、論証的真理というのは科学的真理とは異なるものであると認識していらっしゃるという事になると思われます。
そして、それは実証・反証を経る必要なく(先験的に)正しいものであるとも。

上記引用部分は、もしかしたら筆が滑られただけのものであるかもしれませんが、しかし、そうすると、やはり”記事本文のロジックから、論証的真理の先験的な正しさ――つまり、実証に先立つ正しさ――を認めていると考えられる「ポバーの反証主義」を「間違いである」とする事は出来ない”、という事になるのではないでしょうか[質問F]。

(一回書き込んだものを削除し、一部修正したものを再投稿させていただきました。)
Commented by 論宅 at 2008-08-23 21:49 x
 論宅です。確かに私は異なるものだと捉えていますが、むしろ反証主義者は科学的真理をどう捉えているのか知りたいわけです。素直に解釈すると、科学的真理は、実験や観測(調査)で反証による検討過程を経たものであると定義されると思います。ポパーも反証実験に耐えた知識を科学的真理であると考えていたのではと思いますが、どうでしょうか? 従って、反証実験を必要としない論理的真理は、科学的真理ではないと考えられます。そもそも、反証主義は、科学と非科学の区別する指標として登場し、反証可能性なるものを科学の中心的定義においたと考えられています。
Commented by 論宅 at 2008-08-23 22:39 x
 (知る/ある)の区別で観察すると、全ての真理は、先験的な真理(正しさ)です。実験しようがしまいが、世界が変わらぬ限り(自然の斉一性)、正しいことは正しいというわけです。実験や観測は、真理を知るための手段であっても、それ自体は真理ではありません。人間が知る前から、真理は真理であり、従って全ての真理は本質的に先験的です。また、科学以外の方法で真理を知ることもできるわけです。むしろ科学主義は、科学的手続きを経た知識のみが真理であると主張するわけですが、それはかえって人間の約束事によってつくられた真理になってしまうおそれがあります。科学的実験が真理をつくるというのは転倒しています。科学的実験の前から真理は存在します。もし本当の真理があるとすると、永遠に反証不可能なはずです。反証可能性は、真理と全く反対のものです。
Commented by 論宅 at 2008-08-23 22:59 x
 [質問F]について。論証的真理の先験的な正しさ——つまり、実証に先立つ正しさ——を認めていると考えられる「ポバーの反証主義」とありますが、それは自己矛盾なく、反証主義者に取り入れられているのか疑問です。単に認めるというのではなく、反証主義理論と矛盾なく整合的に取り入れられているのかどうか知りたいです。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-24 02:16 x
論宅さん、すみません。

上に二つコメントを投稿していたのですが、それらがその上の論宅さんのコメント二つ(22時台のもの)の存在に気付く前に書いたものである事によってちょっと話の流れがおかしくなってしまっていたという事から、削除してしまいました。

論宅さんの下さったコメントをよく読んだ上で、また改めてコメントを投稿させていただきたいと思います。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-24 15:08 x
論宅さん、こんにちは。

まず、一つ訂正です。

---以下引用---
確かに私は異なるものだと捉えていますが、むしろ反証主義者は科学的真理をどう捉えているのか知りたいわけです。
---以上引用---

確かに、論宅さんがどう考えていらっしゃるかは、今回のやり取りの論点とは直接には結びつかない事柄ですね。
従って、前回の私のコメント(21:07に投稿されたもの)は今回のやり取りに於いて不適切なものであったという事で、撤回させていただきます。
論理的な力に乏しい事を露呈してしまったようでお恥ずかしいです。

続いて、以下に論宅さんの考えていらっしゃる事についての推測を行ないます。
正しかったら正しいと、間違っていたら間違っていると仰ってください。

まず、今回のやり取りの発端となった、私が疑問に思った事というのは、論宅さんが記事本文の中で「実証ではなく、論証のみで正しいこと」があるという事のみから「ポパーの反証主義も間違いである」としてしまっているのは不適切なのではないか、というものでした。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-24 15:09 x
その後のやり取りの内容から、論宅さんが上記の推論を行なうにあたって利用した、記事本文には書かれていないいくつかの隠れた前提(あるいは私とは異なった認識)があるのだろうなと思っていたのですが、最新のコメントから、その隠れた前提の内容にあたりをつけてみました。

それは二つあって、

1)ポパーの反証主義は科学主義である。科学主義とは、「科学的手続きを経た知識のみが真理であると主張する」ものである。
2)ポパーの反証主義でいう所の「科学的手続きを経た知識」とは、反証可能であり、かつ「反証実験に耐えた知識」の事である。

というものです。

確かに、これら二つを前提すれば、3)”論証的真理は反証実験をするまでもなく正しいもの(真理)である。”が正しいという事から、ポパーの反証主義は(その、論証的真理の先験的正しさというものを自らが認めようが認めまいが)「間違いである」という事を導く事が出来ます。

論宅さんが「ポパーの反証主義」を「間違いである」としたのは、上記1), 2), 3)の認識によってである、という推測は正しいでしょうか、それとも間違っていますでしょうか[質問G]。
Commented by merca at 2008-08-31 15:40
論宅です。色々と考えていただいてありがとうございます。
 上記1), 2), 3)の認識は確かに私の認識ですが,問題はニセ科学批判者である菊池氏や天羽女史などは、そのように捉えていないことです。
彼らは反証主義を科学と非科学とを区別する一つの基準として捉えながらも、科学を絶対化していなと言い張ります。
 ニセ科学批判者は,自己を科学主義だとは捉えていません。
 ちなみに科学主義とは、私の定義では、今のところ人類が信じるべき知識の中で科学が一番確からしいとする思想や感覚をさします。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-31 18:27 x
論宅さん、こんにちは。

---以下引用---
上記1), 2), 3)の認識は確かに私の認識ですが,問題はニセ科学批判者である菊池氏や天羽女史などは、そのように捉えていないことです。
---以上引用---

なるほど、上記1), 2), 3)が論宅さんの認識であるとすれば、それは主に1)の部分について間違っていると私は思います。

#ところで、私が問題としているのは、論宅さんが「実証ではなく、論証のみで正しいこと」があるという事から「ポパーの反証主義」を「間違いである」とした事の妥当性ですから、論宅さんの挙げられたお二方の認識はまったく関係ありませんので、よろしくお願いします。

さて、論宅さんとは異なったものであるその私の認識を、論宅さんも既読であるという伊勢田哲治さんの著書『疑似科学と科学の哲学』を引きながら説得的に主張するという事を目指した文章を書いてみたところ、ここのコメント欄では七・八回に分けないと投稿できない程の量になってしまいました。
それは流石に長すぎるだろうと思いましたので、取り敢えずその要点だけを次のコメントに記してみます。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-08-31 18:28 x
要点は、以下の三つです。((p.xx)と書いてある所のxxは、伊勢田さんの本に於いて私が下記の認識を支持する記述があると考えた頁を表します。)

ポパーの反証主義に於いては、

1.手続きとしての演繹的推論の絶対的な正しさを所与のものとして受け容れている(p.36, 37)。
2.対して、自身の規定する科学的手続きを経た知識については、いかなる場合に於いても、それを<真理>としては看做さない(p.37, 38, 40)。
3.一般に、手続きとしての演繹的推論の正しさは、科学的探求の営みの対象ではない(p.2)。

以上の三点を認めれば(全てでなくともよいですが)、1)は間違いであり、また「実証ではなく、論証のみで正しいこと」があるという事から「ポパーの反証主義」を「間違いである」とするのは不適切であるという事になると思います。

もちろん、上述した私の認識は、様々な理由によって誤っている可能性がありますから、そのような誤りに気付かれた場合はご指摘いただきたく思います。
Commented by merca at 2008-09-01 18:06
論宅です。コメントありがとうございます。
 手続きとしての演繹的推論と論証的真理は果たして同一のものでしょうか?
真理は手続きではなく、対象と一致した認識です。手続きの正しさと真理は別物のような気がします。手続きは正しい知識=真理を得るための手段です。手続きは方法であり対象について何ものも記述しません。従って、手続きの正しさを認めることと論証的真理を認めることとは異なるのではないかと思います。
 さらに、反証に耐えた科学的知識ですら常に仮説であり、真理ではないということですが、真理でないと断定することはできないと考えられます。仮説が真理であることを積極的に決定することが究極的に不可能であるという意味ではありませんかね。科学的仮説を絶対的に真理でないと見なすことは、誤謬だと思います。
 ポパーの反証主義における科学的営みの目的は、より正しい知識=真理を得ることではないということですね。
Commented by merca at 2008-09-01 18:15
続きです。
 実証主義においてはある仮説命題が真理であることを証明するのが目的だとしたら、そのアンチテーゼである反証主義はある仮説命題が虚偽であることを証明するのが目的であるとも言えます。反証された科学的仮説は虚偽として断定されます。反証主義の目的は、科学的仮説を虚偽として退けていくことだと思います。つまり、ある命題について真理であるということは断定できないが、虚偽であるということは断定できるという信念に基づいているわけです。
 実証主義も反証主義も真偽という同一コードに準拠している思想だと観察されます。
 悦楽共犯者さんがブログをお持ちならば、伊勢田哲治さんの著書を利用した悦楽共犯者さんの長い文書を拝読できるかもしれません。それを読めば、ある種、私も納得いくかもしれません。
 
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-01 22:44 x
長々とお付き合いして下さってありがとうございます。

残念ながら私はブログを持っていませんので、そこで長い文章を公開する事は出来ません。
それ抜きで、論宅さんあるいは私が、ある種、納得いく事を目指しましょう。

---以下引用---
手続きの正しさと真理は別物のような気がします。手続きは正しい知識=真理を得るための手段です。手続きは方法であり対象について何ものも記述しません。
---以上引用---

まさにその通りだと思います。
手続きの正しさというのは、その手続きに沿って得られるものの正しさを保証するものですよね。

ところで、論宅さんが記事本文冒頭で挙げられたいくつかの「論証的真理」の正しさは何によって保証されているとお考えなのでしょうか[質問H]。

あと、上で書いた要点2.は、まさに反証主義が

---以下引用---
仮説が真理であることを積極的に決定することが究極的に不可能である
---以上引用---

という立場にあるという意味で書いたつもりでした(帰納的蓋然化としての<確証>を捨てたという意味で、もう少し相対主義よりかとも思いますが)。
書き方が悪かったようですね。すみません。
Commented by merca at 2008-09-06 15:26
悦楽共犯者 さん こんにちは 論宅です。
 論証的真理であれ、実証的真理であれ、真理は、手続きの正しさに根拠があるではなく、真理自身のうちに正しさの根拠が宿っています。従って、正しい真理は論証であれ、実証であれ、同じ結果となります。私が提示した事例は、実証実験しても論証と同じ結果がでますし,永遠に反証されません。反証実験はできるが,永遠に反証されない命題をポパーは考えていなかったところが間違いだと思います。つまり、そのような命題は絶対的真理となりますが、ポパーは絶対的真理のあり方を故意に排除していたと考えられます。もし絶対的真理というものが存在すると、ポパーの反証主義は意味をなさなくなります。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-06 20:24 x
こんにちは、論宅さん。

論宅さんの考える「論証的真理」の正しさが演繹的な手続きと無関係なものだという事でしたら、私の最初のコメントに於ける[質問A]にすぐさまNoと答えて下さっていればよかったのに、と思います(「論証」などと仰るので勘違いしてしまいました)。

ただ、何にせよ、私は、ポパーの反証主義は手続きとしての演繹的推論の妥当性を所与のものとして受け容れており、従って論宅さんが挙げられた「論証的真理」の例をはじめとした、適切な解釈のもとで演繹的推論を構成する命題を実験や観察を行なうまでもなく正しい「絶対的真理」と言えるものして認めるという事から、少なくともそれは「何でもかんでも実証や反証がなければ真偽を確定できないとする極端な実験主義の立場」にはないと考えますし、また、そもそもその「絶対的真理」の存在の上に立って機能するものですから、

---以下引用---
もし絶対的真理というものが存在すると、ポパーの反証主義は意味をなさなくなります。
---以上引用---

というのは間違っていると考えますが。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-06 20:25 x
あと、ちょっとした質問なのですが、ある箱にボールが四個入っていたとして、その事実が「ある人が一個のボールを空箱の中に入れ、その後に別の人が二個のボールを同じ箱に入れた」(そして、それ以外にはその箱に対して何の操作も行なわれていない)事の反証になっているという事を、ポパー流の反証主義者は認めると思いますか[質問I]。

[質問I]の答えがYesであった場合、それは何故だと思いますか[質問J]。

また、論宅さんが例として挙げられた「論証的真理」のうちに宿っている正しさを、論宅さんはどうやって見出されたのでしょうか(どうしてそれが真理であると言えるとお考えなのでしょうか)[質問K]。
Commented by merca at 2008-09-15 16:15
論宅です。悦楽共犯者さん コメントありがとうございます。
  仕事が多忙でお返事がおくれまして申し訳ありませんでした。
 まず、確認です。 
 ポパーは、絶対的真理を認めているということですね。しかも、演繹的推論によって論証された論証的真理が絶対的真理に該当するというので、よろしいでしょうか?
 むしろポパーの反証主義は、絶対的真理を否定しては成りた立たないということですね。そうなると、面白いと思います。それは悦楽共犯者さんの解釈なのか、一般にそのように言われているのか知りたいです。何か文献が見つかるといいですね。絶対的真理の世界と、相対的仮説の世界の二元論的統合には興味あります。
 反証主義において、反証実験に耐える命題も真理とは断定できないという根本命題=前提と、絶対的真理の存在を認めるという根本命題=前提は、相反している命題ですが、この矛盾はどのように統合されているか知りたいです。どちらかを棄却しないと、ポパーの反証主義は矛盾を抱え、成立しないように思えます。
Commented by merca at 2008-09-15 16:15
続きです。
 演繹的推論によって命題が真理であることがわかったというよりも、直観で判別したというほうが正しいと思います。論理法則や数学的原理の根底にある「ライプニッツの不可識別者同一の原理」による直観です。推論というと、思考過程を介在させてしまいますが、直観はもっと直接的なものだと思っています。
 論理法則や数学的原理の正しさに共通していることは、「ライプニッツの不可識別者同一の原理」です。この直観によって人は正しいと感じると私は思っています。
Commented by merca at 2008-09-15 16:16
続きです。
「ある箱にボールが四個入っていたとして、その事実が「ある人が一個のボールを空箱の中に入れ、その後に別の人が二個のボールを同じ箱に入れた」(そして、それ以外にはその箱に対して何の操作も行なわれていない)事の反証になっているという事を、ポパー流の反証主義者は認めると思いますか[質問I]。」
 数的原理からすると、3個のはずが、事実は4個だったというわけですが、反証主義は、この事実を反証と認めても、認めなくても、矛盾を起すと思います。もし反証だと認めると、自己の前提である演繹的推論が絶対的に正しいという根本命題が否定されることになります。また、もし反証でないとすると、反証実験の意義を否定することになり、そもそも反証主義と名乗ることさえできなくなります。
 このような矛盾が生ずること自体が反証主義の弱点だと言えます。故に、演繹的推論が絶対的に正しいという根本命題を捨て去ることが、反証主義が生きる残る道と言えましょう。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-16 20:22 x
論宅さん、こんにちは。
ご多忙のなかお付き合いして下さってありがとうございます。
(最新の記事も大変興味深く拝読しました。私も/は手塚治虫のマンガ、大好きです。)

……さて、論宅さんの2008-09-15 16:15のコメントに於ける「まず、確認です。」以降「よろしいでしょうか?」までのくだりを、私の主張の部分的な要約として(語義についての若干の留保付きで)認めます。
これは、私の2008-08-31 18:28のコメントに於ける1.の主張にあたります。
ポパーの反証主義(に於ける反証の概念)が、手続きとしての演繹的推論の妥当性を所与のものとしない事には成立しないというのは一般的に認められる事であろうというのが私の認識です(私は、この認識に至るのには伊勢田さんの本のp.36-37の記述内容で十分であると考えていましたが、論宅さんは当該部分を読んでもなおそう思われないという事でしょうか)。

そして私は、その認識がポパーの反証主義を成立させなくするような矛盾を必然的に引き起こすものではない、という事も既に主張しています(同じコメントに於ける3.)。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-16 20:23 x
例えば、伊勢田さんの本のp.2には、「明らかに論理の問題は経験的知識の枠を超えているといえるだろう。」という記述があります。
また、http://ocw.nagoya-u.jp/files/45/sp_note03.pdf (注:pdfファイルです)
の「2 反証主義の問題設定」や、
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kyotsu/2002ss/2002A03popper.htm
に於いて、反証可能性という概念が経験科学と数学・論理学・形而上学との境界設定のために考え出されたものであるという事が記されています。
従って、ポパーの反証主義に於いては、数学・論理学は反証の試みの対象たる科学的仮説には含まれていないと捉える事が出来ます。

以上より、反証可能性によって峻別された科学的仮説の全てについてその正しさを相対的なものとした上で、なお矛盾なく手続きとしての演繹的推論の妥当性を主張する事は可能であると言えます。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-16 20:25 x
以上に私が述べたのは、論宅さんが今回のコメント欄に於けるやり取りの中でなさった、演繹的推論の妥当性を認める事が反証主義に即矛盾を引き起こすという主張に対する反論です。
ただ、記事本文に於ける論宅さんの主張は、演繹的推論の妥当性に纏わるものではない([質問A]に対する答えがNoである)との事です。
おそらく自然数の体系などに関する認識論上の問題等も関わってくるのであろうと推測しますが、浅学な私はその主張を積極的に誤りであると主張する事はしません(出来ません)。

ただし、論宅さんとポパーとの間に「論証的真理」の正しさに関する認識論的な次元に於ける”対立”がもし仮に事実として存在していたとしても、その対立を科学哲学上の立場として反証可能性をある言明が科学的であるか否かを判断する際の基準の一つとして捉える人々との間に本質的に成立するものであるとは言えないだろう、とは思いますが。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-16 20:26 x
あと、[質問I]についてですが、またまた私の書き方が悪かったようで、論宅さんに誤読をさせてしまったようです。
私が意図した質問内容をもう少し噛み砕いて書きますと、ある箱の中身および経緯についての知識をまったく有していない人間がその箱に対する観察を行い、結果その箱の中に四個のボールが入っているという事が判った、という状況の下で、では何故四個のボールがその箱の中に入っているかという事に対する説明として”「ある人が一個のボールを空箱の中に入れ、その後に別の人が二個のボールを同じ箱に入れた」のではないか”とする提案に対し、ポパー流の反証主義者が「ありえねー」と言うと思うか否か、という感じになります。
ポパー流の反証主義者が、「ありえねー」と言ったとしても、「自己の前提である演繹的推論が絶対的に正しいという根本命題が否定される」事にはなりません。
むしろ、それをありえない(すなわち反証が成立する)とするならば、それは論宅さんの挙げられた「論証的真理」の例の正しさを受け容れているからこそであると言えます。
Commented by merca at 2008-09-18 23:53
こんばんは 悦楽共犯者さん 論宅です。今日は少しだけ。
 私の解釈です。
 反証主義においては数学・論理学の世界と経験科学の世界を区別しているわけですが、数学・論理学の世界における正しさは手続きの正しさと解釈しており、対象の記述にまつわる正しさではないような気がします。多くの科学は、数学と論理学を手続きとして使用しています。反証主義が認める数学と論理学に基づく正しさというのは思考手続きの正しさだけであり、対象の記述にかかわるものではないように思えます。反証主義が科学的仮説の世界から数学・論理学を除外したのは、かえって数学・論理学を手続きの正しさに押し込めるためではありませんか?
私の出した事例は、実験でも、論証でも、獲得できるものであります。言わば、論証的真理でもあり、かつ経験的(実証的)真理でもあるわけです。私の出した事例は、経験的事実と矛盾しません。経験科学の世界もカバーしています。
 反証主義は、数学・論理学の手続的な正しさを認めているだけであり、記述的真理として認めているわけではないと思います。
Commented by merca at 2008-09-19 00:39
続きです。
 伊勢田さんの「明らかに論理の問題は経験的知識の枠を超えているといえるだろう。」ですが、私は論理は経験を超越しているわけでなく、経験的知識やその経験的対象に内在しているものとして捉えています。本来、真理というものは、論理的にも経験的にも正しい命題と考えられます。私の出した事例は、実験でも、論証でも、獲得でき、論証的真理でもあり、かつ経験的(実証的)真理でもあるわけです。従って、事例は、反証主義のいうところの経験的科学が成立つ科学的仮説の世界にも属しています。科学的仮説の世界は真理と断定できないと言いつつも、私が示した事例は、真理であるわけであり、やはり反証主義の前提は間違っているわけです。つまり、科学的仮説の世界たる経験的知識は、真理だと断定できないという反証主義の根本命題=前提は間違っていることになります。
このような過ちは、論理的かつ数学的世界と経験世界を無理に区別することから来ていると思います。
Commented by 悦楽共犯者 at 2008-09-19 14:00 x
論宅さん、こんにちは。

「今日は少しだけ」と書かれているので、まだ続きがあるのかもしれませんが。

---以下引用---
反証主義が認める数学と論理学に基づく正しさというのは思考手続きの正しさだけであり、対象の記述にかかわるものではないように思えます。(~中略~)
本来、真理というものは、論理的にも経験的にも正しい命題と考えられます。
---以上引用---

論宅さんがお持ちの<論理>のイメージはどのようなものなのでしょうか。

---以下引用---
私の出した事例は、実験でも、論証でも、獲得でき、論証的真理でもあり、かつ経験的(実証的)真理でもあるわけです。従って、事例は、反証主義のいうところの経験的科学が成立つ科学的仮説の世界にも属しています。
---以上引用---

論証によって獲得できる「論証的真理」の意味がはっきりとしませんが、取り敢えず演繹的な論証についてはその”全体”は恒真ですから反証不可能であり反証主義の定義するところの科学的仮説にはなり得ませんよ。

あと、前回の私のコメントに於ける「手塚治虫のマンガ」を「手塚治虫さんのマンガ」に、マンガの神様にお詫びしつつ訂正させていただきます。
Commented by NT at 2008-09-21 07:33 x
問題はある事実からある真理を証明するに際して、その論証の各段階が正しいさをどう保証しているかであって、論理法則の他に物理では実験や実証から、数学では正しいとする公理から導いている。そういう意味では"論証"の例としてあげてられているものも物理では実証主義的です。例えば1kgの鉄板を10枚重ねると10kgになるというためには"質量保存の法則"という命題が"正しいであろう"ということを使っていて、現在、"質量保存の法則"が"正しい"と考えられているのはそれに対する明確な反証がないからです。
Commented by 論宅 at 2008-09-21 08:59 x
 論宅です。こんにちは NTさんは物理学者でしょうか?
 質量保存の法則が数学と矛盾することがないのがまたポイントとなります。質量保存の法則は、実験による帰納法から得られた命題でしょうか? それとも、数学や論理法則から演繹的に推論されてあみだした命題でしょうか? 「1kgの鉄板を10枚重ねると10kgになる」というのは、反証可能な経験科学の世界の命題でもあるということです。また、同時に数学の公理からあらかじめ論証も可能です。
Commented by NT at 2008-09-21 10:37 x
すみません。私は物理学者ではないです。なので断言はできないのですが、ニュートン力学下での質量保存則は実験によるものだと思います。実は厳密には質量は保存するとは言えず、相対論の下では必ずしも質量が保存しません。相対論がほとんど影響しないニュートン力学下で質量が保存しない例がみつかれば、物理は修正を余儀なくされるのでその点においては反証可能な経験科学と言えるかもしれません。数学の公理は無矛盾であれば必ずしも物理法則に即した公理系である必要はないので、たとえば1+0=1,1+1=0,0+0=0,+は結合法則が成り立つ演算、と仮定したような場合は1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=0となり、鉄板の命題を証明できません。鉄板を10枚積み重ねるという物理現象を記述するにおいて、1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=10となる数学の公理系が適当であることを実験で示す、というのが物理の基本的な態度だと思います。
Commented by merca at 2008-09-24 08:17
論宅です。自然数の公理系は、やはり「ライプニッツの不可識別者同一の原理」に準拠しています。たとえば「1+0=1,1+1=0,0+0=0,+は結合法則が成り立つ演算」については、演算の意味を変換しているだけであり、プラスという記号の意味を別の意味に変換しているだけになります。我々が普通使用するプラスの意味で解釈すれば、1+1=2になります。演算記号設定の任意性と数学の公理体系の無矛盾性は異なると考えます。
 しかも、任意の演算記号設定後の操作は、自然数や形式論理学の操作に従っていると直観しました。複雑な話になるので、とめおきますが、ある一つの存在と別の一つの存在が合わさると、2個になるというのは、数学や形式論理学の根底にある「ライプニッツの不可識別者同一の原理」という直観に基づきます。
 
Commented by merca at 2008-09-24 08:30
続きです。ただし、NTさんのおっしゃるように、互いに還元されない全く異なる論理や公理系が複数存在し、一つで無いというのなら、演繹的推論による論証的真理は常に正しいとするポパーの前提は崩れてしまいます。演繹的推論が準拠する論理や公理が複数あり、三段論法を駆使する形式論理学の推論が正しいとは限らなくなるからです。
 この場合、歴史的事実の真偽を立証する手続きに使用する形式論理学的推論の妥当性もなくなり、歴史学も危機に陥ります。        
        この点、検討すれば、色々と面白いと思います。
Commented by 論宅です。 at 2008-09-27 20:19 x
悦楽共犯者さん こんばんは 論宅です。 
 論理のイメージとしては、一つです。「ライプニッツの不可識別者同一の原理」です。A=Aという形式論理学、さらに1+1は2である数学の公理の根底にあるメタ論理です。モナド論の基礎にあります。
 NT さんの登場により、さらに議論は難しくなってきました。社会や個人によって異なる論理が存在し、論証的真理も唯一でなくなり、真理でないということになるからです。先験的に正しいものと断定できる知識は何もないということになります。究極の相対主義です。となると、形式論理学や数学を使用している科学は真理でないことになります。
Commented by chrysostomos at 2008-09-27 23:12 x
論宅さん、chrysostomosです。
このコメントツリー、もう終わってると思いだまっていましたが、まだ生きていることがわかりましたので、割り込ませてください。
気になることがあります。
>互いに還元されない全く異なる論理や公理系が複数存在し、
確かに公理系は複数存在しますが、論理は一つ、というか同じ論理しか用いていないと思うのですよ。これが一つ
もう一つは、数学は科学じゃないですから、ある公理系が内部で無矛盾なら数学としては正しいですが、それを物理学のような自然科学が使用するなら、その公理系が物理的世界に対応していることを検証しておく必要があります。
有名な例に幾何学があります。古来ユークリッド幾何学が物理的世界を表現していると考えられてきましたが、アインシュタインの一般性相対理論においては、平行線の公理を否定したリーマン幾何学こそ世界を表現するものとされました。数学的には相変わらずユークリッド幾何学は正しいですが、もはや適用できないものになってしまったということです。
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