無差別殺人事件と善悪の基準

 あるニュース番組で、最近起きた通り魔無差別殺人事件の犯人がテレビ局に手紙を送っているというのがあった。その中で、善悪の絶対的基準は存在しないので、殺人をしてもかまわないという内容の文面があった。
 これは、犯罪社会学的には、相対主義・懐疑主義を利用した殺人の合理化である。論理的に殺人が悪いという道徳の正しさを証明することは不可能である。このことは、哲学の歴史を見れば、わかる。ポストモダンの相対主義者や懐疑主義者たちが善悪の基準は存在しなく、絶対的真理や絶対的善はないと豪語したのは周知のとおりである。
「殺人は悪である」という命題は、科学的には証明できず、近代で自己こそ真理であると豪語する科学主義者もお手上げである。科学は、存在と価値を峻別し、価値判断の問題は扱わないという。殺人防止について、科学は無力である。

 道徳は、内面化してこそ道徳として機能する。例えば、盗みをしたら、自己イメージが下がり、罪悪感を感じる人間は、きちんと道徳を内面化している。しかし、無差別殺人事件の犯人は、殺人をしても、自己イメージがさがるどころか、逆にあがっているわけである。
 通り魔無差別殺人事件の犯人たちは、果たして殺人が悪であるという道徳を内面化していなかったのだろうか? 多くの保守的論者は、内面化していないと捉え、道徳の危機を叫ぶ。しかし、実は内面化しているように思えてならない。内面化しているからこそ、合理化・正当化をするのだと。彼等は、「殺人は悪いことである。」という命題が正しいと証明されることを恐れているのである。もし証明されると、罪悪感に襲われ、瞬時に彼等の自我は崩壊するだろう。真なる許しは、その後に聖者たちによって告げられるだろう。
 「殺人は悪いことである。」という命題を認めつつも、自己の行為を合理化するために、「派遣会社が悪い」とか「善悪の絶対的基準は存在しない」とかという屁理屈をもって自己の罪悪感を無効化・中和化しようとするのである。これは、陳腐な犯罪者の使う常套手段である。

 合理化・正当化を徹底的に封じろ!! これが通り魔無差別殺人に対する処方箋である。
 
 ポストモダンの相対主義者や懐疑主義者たちが発した無責任な言説が、通り魔無差別殺人を起す地獄使者たちの犯罪動機を強化するように機能し、人の命が奪われるのである。ニーチェの罪は深い。また、統計的事実に基づくワーキングプア論や貧困論を唱える論者たちの言説も、この悪魔達の行為の合理化・正当化のために利用されているのである。
 殺人を合理化・正当化するための物語として機能する宗教思想、哲学思想、社会理論、科学理論には要注意である。自己防衛のために彼等は自己の物語を絶対化しようとする。
    殺人を合理化・正当化する物語を相対化せよ!!

  参考・・・「火の鳥 鳳凰編」の我王
       「ブッダ」のアンヒンサー
       「ブラックジャック」のドクター・キリコ
         これを読むべし

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by merca | 2008-09-15 10:26 | 社会分析
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