歴史学は全て非科学的知識。

 (一回性/反復性)、(個別性/一般性)という区別から科学主義や反証主義を観察してみたい。
 原理的に、反証可能性は、反復性のある命題にのみ適用され、一回性の命題には適用できない。
 例えば、「リンカーンはアメリカ大統領になった」「リンカーンは死んだ」という命題は、歴史上の真実であるが、この命題には反証可能性はない。
 一回性・個別性から構成されている命題についての真偽は、反証実験ができず、反証主義の適用外である。しかし、このような命題も歴史学では真実として扱われている。何を根拠にして真実であることがわかるのか? 歴史的事実=真実は、演繹的推論でもなく、実験でもなく、成立っているように思われている。
 科学主義者は、「リンカーンはアメリカ大統領になった」「リンカーンは死んだ」という命題については、科学的に立証できないので、真実ではないと言うのだろうか?それでは、あまりにも歴史学者が可哀想である。ニセ科学批判者のような生粋の科学主義者なら、歴史学という科目は、非科学であり、究極的に真であるかどうかわからない不確かな知識を事実と偽って教えている可能性もあり、子供に有害であると言い出すかもしれない。彼等からすると、歴史学における歴史的真実なるものは、非科学的であり、スピリチュアリズムの知識と同じである。 
 科学あるいは反証主義は、観察対象の一般性と反復可能性(再現性)を前提とした理論である。ありのままの生の世界は、全て個別的かつ一回性から成立っているという前提に立つ池田氏の構造主義科学論からすると、科学(反証主義も)は、全て錯覚となるらしい。
  
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by merca | 2008-09-18 22:57 | 理論 | Comments(15)
Commented by chrysostomos at 2008-09-21 22:41 x
はじめまして。

(一回性/反復性)、(個別性/一般性)という区別から科学主義や反証主義を検証するというお説、興味深く拝見しました。
ただ、歴史学の命題が反復実験可能でないので、真偽の程は判定できないと言う点については、同意できません。反復実験によって検証(反証)できるかどうかというのは、その学が実験科学であるか否かを判定する基準です。ですから、お説の中にある科学という言葉は、厳密には実験科学というべきものです。歴史学は実験科学ではありませんから、その命題が非実験科学的であるのは、むしろ当然のことです。実験科学的方法が適用できないからといって、歴史学の命題が正しいと立証できないとうのは、論理のj飛躍だと思います。(字数が多いといわれましたので、分けて送ります)
Commented by chrysostomos at 2008-09-21 22:43 x
歴史学には歴史学の方法論があって、それによって客観的に正しい学説が成立しているわけです。「リンカーンはアメリカの大統領であった」という命題を例に取りますと、大統領発行文書にリンカーンの署名があるとか、そういった数多の文書、資料によって証拠づけられているわけで、その資料群に接した複数の学者が、先入観なしに判断してリンカーンは大統領であったと結論付ければその命題は客観的に正しいと言えると思います。また、歴史学の命題が反証可能かといえば、従来の学説を覆す新たな資料の発見により消えていった学説があるわけでして、十分反証可能であるといえます。ただ、反証の方法が実験科学のそれとは異なっているだけです
Commented by merca at 2008-09-24 07:18
chrysostomosさん コメントありがとうございます。論宅です。
chrysostomosさんは歴史学専攻でしょうか? 言われていることはよくわかります。私は自然科学主義や反証主義や統計主義に準拠した真理観を絶対化すべきではないという立場をとっており、別の方法で真偽を探究することを否定するものではありません。最近、ニセ科学批判という思想的潮流が流行っており、自分達の科学の基準に合わない知識体系を否定しまくる反文化的な活動が盛んになっています。これに抵抗する皮肉としてエントリーを書きました。
 反証実験可能性と反証可能性の区別が曖昧なところがポパーの反証主義の落とし穴なんです。別のエントリーを読んでもらえばわかりますが、ポパーの反証可能性はおそらく反証実験可能性です。
  
Commented by merca at 2008-09-24 07:37
続きです。歴史的事実の真偽を判定する方法は、裁判過程における犯罪事実の認定方法に似ていますね。証言と物的証拠と推論でもって一つの事実を認定します。認定者たる裁判官は、犯罪事実を見たことがないわけですが、証言と物証から推論して過去の事実を導きだすということになります。
 この方法は、基本的には、実証ではなく、論証的な真理の域になると思います。三段論法という形式論理学の法則を利用しています。ある事実と別の事実から、正しい第三の事実を導き出します。
 小林よしのりが南京大虐殺が歴史的事実でないと言い張っており、議論を巻き起こしていますが、歴史教科書は歴史的事実に基づくべきであるという単純な発想ではダメだと思います。歴史的事実たるものは、いつでも反証される可能性があり、事実として絶対化しすぎない態度のほうが大切だと思います。むしろ歴史的事実の語られ方、つまり解釈の方に社会の本意があったりします。 
 ある意味、「ニュートンは、万有引力の法則を発見した」という自然科学にまつわる歴史的命題は、自然科学の方法からは確定できず、歴史学がその真偽を確定するとも言えるでしょう。
Commented by chrysostomos at 2008-09-25 00:02 x
論宅さん(とお呼びしていいですか)、コメントに対する回答ありがとうございます。残念ながら私は歴史学専攻ではありません。(高校生の時愛読していた歴史全集の中に、いくら高尚な説を論じていても、直接資料に当たらなければプロの歴史家おは言えないということが書いてありまして、それで歴史学者になる夢は捨てた次第です)
ところで、カール・ポパーが反証可能性ということを思いついた背景には、マルクス主義の歴史認識とフロイト理論への批判があったと聞いたことがあります。フロイトについてはよくわかりませんが、マルクス主義の歴史観とは、社会は奴隷制社会→封建制社会→資本主義社会と発展していくというものです。これは実験で確かめることはできませんが、西欧の歴史を観察して得られた知見なら中国ではどうだ、インドでは、アラビアではと観察して検証することで可能です。しかしマルクス主義史家はそれをせずに、むしろそれが正しいとの前提で、各社会が発展のどの段階にあるかを当てはめようとした事がポパーの不審を招いたようです。
Commented by chrysostomos at 2008-09-25 00:50 x
続きです。
このように、ポパーが目を向けていたのは個別の歴史上の事象ではなく、歴史法則のようなものです。
しかし、個別の歴史事象から歴史法則を抽出するのが歴史学の使命であるとのコンセンサスは、少なくとも今の歴史学者の間にはないように思います。
とはいえ、歴史法則を除外してもことは、なお複雑です。
次の例をご覧ください。
(a)源頼朝は1192年に征夷大将軍に任ぜられた。
(b)鎌倉幕府は1192年に成立した。

(a)は先に例に出したリンカーンはアメリカの大統領だったというと同じく単純な歴史的事実です。頼朝を征夷大将軍に任ずる朝廷の文書でも見つかれば簡単に証明できるでしょう
しかし、(b)はそもそも鎌倉幕府とは何ぞやという解釈に深くかかわっているため、簡単には真偽は決められません。かと言って、見解の相違と言ってしまえば学問はなりたちません。
このような状況でも、いかにしたら間主観的統制のとれた議論ができるかは、歴史学の一つの課題だと思うのです。
Commented by chrysostomos at 2008-09-26 17:44 x
chrysostomosです。追加します。
最初、、例に挙げられていたような、「リンカーンはアメリカ大統領になった」「リンカーンは死んだ」というような単純な命題を考えていたので簡単に考えていたのですが、事情はそう単純でないことがわかってきました。
 実験科学の対象となる事象は独立性が高く、その部分だけを自然界から切り出して実験することが可能です。反復性、一般性というのも、対象がこういう性質を持っているからこそ可能なことではないでしょうか。
 これに対して歴史的事象というのは、全体の文脈から切り離しては正しく理解できないものが多いです。論宅さんのあげておられた南京大虐殺なども正しくその例だと思います。これなどは、列強の帝国主義的拡張とか、日清戦争以後の日中関係といった文脈の中でみなければならないことだと思います。たとえ事実が確定したとしても、それ単独で取り出したのでは不毛な議論になると思います。
Commented by 歴史大好きっ子 at 2008-09-26 23:52 x
初めまして、

とても面白い内容のブログなので、ちょっとコメントさせてください。
私の意見は、言葉における”真”と”偽”はそれを決定させる前提(歴史的、社会的、政治的、文化的など)があるようで、これは個人によっても、お国柄によってもまたは教育水準によってもあります。

たとえば、あなたのおっしゃる”歴史的真実”という言葉の”真”の導き方もその言葉の定義の前提によって当然違ってくるのです。それは歴史学を科学的に反証できるかという問いにも言えることで、その質問の定義とその前提によっては可能だと考えられるのです。

人の思考には単眼的思考と複眼的思考などがあるように、言葉1つとっても複眼的に見ると、かなり違った”意味”が考えだせるのです。

私はこれを歴史学を勉強する中で教わりました。

それではまた。
Commented by 論宅 at 2008-09-27 20:01 x
歴史大好きっ子さん chrysostomosさん 論宅です。
 そこで質問ですが、歴史学における客観性は何によって担保されているのでしょうか? ニセ科学批判者などは、この点をついてくると考えられます。すべて解釈次第のあやふやな学問であると批判してくるおそれがあります。主観的な解釈次第でいくらでも全く異なった事実を主張できるというでしょう。ニセ科学批判者から歴史学の真理性を守る手段を考えたいです。ニセ科学批判者たちは、擬似科学のレッテルをあらゆる学問に張りつけます。
Commented by 歴史 at 2008-09-28 02:12 x
論宅さん、

ご返事ありがとうございます。早速ですが、ご質問の回答として、ベストアンサーとしては、先人の業績を元にしてそれをとある方法論で分析、批判することで、ある歴史の”事実”の客観性を獲得できるのではないかと私は理解しています。しかし、ポイントはその”事実”は決して”真実”ではなく、1つの”客観的””解釈”でしかないと考えます。プラトン以降、”書かれたもの”にはすべて”絶対”がありません。なぜなら”書かれたもの”はそれを書かなかった人によって解釈されるからです。

それと、別の例で言えば、”白”という色を科学的に証明することもほぼ無理でしょう。なぜなら”白”という色を認識するわれわれの脳はそれぞれ違う解釈で”白”を認識しているからです。この事実は油絵の授業で体験しました。

結局科学的に証明されているとされている”真実”も時代によっては”真”が”偽”に変わる可能性もあり、ほんとうのところ、われわれの脳内で理解されていることには限界があるということだけが真実なのかもしれません。

ちょっと長くなりましたが、結論は、”真実”という言葉自体に私個人は批判的です。
Commented by 歴史大好きっ子  at 2008-09-28 02:20 x
たびたびすみません。他の方の意見を読んでみたところ、私の意見はかなりmercaさんの意見に近いかと思います。まさにものごとは”解釈”次第であるなぜなら、われわれの脳がものごとを認識”解釈”しているからと言えるのではないでしょうか?
Commented by chrysostomos at 2008-09-28 20:29 x
大変おおざっぱな把握なんですけど、
歴史的事実+歴史家の歴史観=学説
というふうになってると思うんですよ。

この歴史家の歴史観というところを相対化できれば
客観的な話ができるのではないかという、淡い期待をもっているのですが。
Commented by ポペリアン at 2008-11-27 02:44 x
こんにちは。通りすがりです。ポパーについては、たくさんの誤解が、特に日本で広められていて、いっこうに修正される気配がありません。瞥見する限り、失礼ながら論宅さんも誤解なさっているようです。(論理的な)反証可能性と(実際の)反証性というのは全く異なった概念です。この点については、ずいぶん前に日本のポパー研究者の間では共通了解となっているはず。池田清彦の批判は論理的に的外れであることは、小河原誠『批判と挑戦』P27に詳説されていますのでご参看を。。。また反証と検証の非対称性については関雅美『ポパーの科学論と社会論』P119(小河原P142にも)に説明されています。このエントリの「一回性/反復性」は偽のダイコトミーです。ポパーの世界3の理論で簡単に解決できるかと。以上、ご参考に・・・・。
Commented by merca at 2008-11-30 09:52
論宅です。
 反証主義が(論理的/実際的)というメタ区別から観察しなおすことなしに成り立たない理論だということは、やはりそれ自体では完結しない不完全な代物ということになります。しかし、論理的な反証可能性という概念は、それ自体、ありえないのではと思います。なぜなら反証とは全て反証実験という実際的なものに根拠を置くからです。
 一回性のある歴史的事実は、ポパーの三世界論における世界1=物理的世界や世界2=心理的世界の領域に属さず、世界3=客観的知識の集合体=社会か?に属するものであり、世界3については、厳密な意味での反証可能性が成り立たない領域だということでしょうかね。
Commented by merca at 2008-11-30 10:09
 続きです。
 ホパーの反証主義は、真理の対応説をとることのできる世界領域のみに妥当となります。別の真理観、例えば整合説、合意説、実用説などを前提としていません。
 物理的世界が対応説、心理的世界が整合説、社会的世界が合意説に対応しています。実用説は、どの世界にも関わることができる観察コードです。
 ポパーが世界を三世界に区別した根拠あるいは理由は、実用説のみによって矛盾なく説明されます。つまり、反証主義の論難を避けるという目的のために三世界論を利用するのが適当だったからです。
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