治安の社会的構築

 当ブログのコメントからの引用
 多くの人は自分の住んでいる地域では治安は悪化していないが、「ここではないどこか」で悪化しているらしいと考える傾向にあるようなのです(久保大『治安はほんとうに悪化しているのか』(公人社)、K.F.Ferraro、Fear of Crime(State University of New York Press)など参照)。

 普通、治安は、犯罪発生率で測定される。犯罪発生率が高いほど、犯罪に合う確率が高いことになるからである。しかし、犯罪に合う危険性は、人によって異なる。防犯意識が高い人間は、日頃から犯罪被害に合わぬように心掛けており、犯罪には合いにくくなる。警察は、防犯教育の一貫として、振込み詐欺や戸締まりについて防犯教育をする。防犯教育が行き届いている人や地域社会は、犯罪に合いにくい。一方、無防備な人や地域社会では犯罪に合いやすくなる。
 このように考えると、防犯意識が高く、犯罪被害に合わない人や防犯活動が盛んな地域社会の住民にとっては、身の回りには犯罪がないが、治安の欲求水準が高くなり、社会全体として治安は悪化しているとの意識を持ちやすくなるではないかと考えられる。
 つまり、これまで犯罪被害に合わなかった人は、それなりに防犯意識が高たいために、体感治安について、自分の住んでいる地域では治安は悪化していないが、「ここではないどこか」で悪化していると答えると考えられる。
 翻って考えると、体感治安が悪いという意識は、防犯意識の高さを測定していることになるかもしれない。
 しかし、この仮説が成立つためには、被害者学の知見を必要とする。例えば、犯罪被害にあった人と一度も犯罪被害にあったことのない人の間に、防犯意識や防犯態度において、差異があるか検証する必要もある。
 
 もっとも、重要なことは、防犯行為をしなくなったら、犯罪に合いやすくなるということである。防犯行為が犯罪防止につながるという単純な因果関係を無視して、治安悪化神話批判をしても意味がないことは確かである。それは、ちょうど、警察がいなくなり、刑務所がなくなると、どうなるのかそれを想像してみるとわかる。たちまち、犯罪被害に合う人が続出するだろう。
 要するに、治安悪化神話批判は、「治安は維持されるもの」すなわち刑事政策や防犯活動によって、社会的につくられたものであるという根本的認識を欠いた議論なのである。2002年から現在に至って、犯罪発生率が低下しているのは、警察官の増員と警察や地方自治体による防犯キャンペーンの成果によって、仮に治安は維持されるているからである。従って、警察や防犯活動に批判の鉾先をむける治安悪化神話批判論者は、根本的に間違っているのである。

 治安は、教育、福祉、経済、マスコミによってつくられるのではなく、機能主義社会学の観点からは、第一義的には国家の刑事政策システムによって、自己言及的につくられるのである。

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by merca | 2008-11-02 20:32 | 社会分析 | Comments(0)
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